第二章 ケルマーンの戦い -4-
阿修羅の顎。
スミトラ軍の生き残りによって命名されたこの天然の関門に、十騎ばかりの騎兵が近づいてくる。彼らは平静を装っていたが、内心の恐怖を隠せずにいた。先遣部隊八千が半壊したのは、もう彼らも知っているのだ。
「黒い悪鬼が出るらしいぞ。そいつがスミトラ将軍を討ち取ったらしい」
「偵察部隊が幾つも全滅しているらしいじゃないか。こんな地獄のような土地で死にたくはねえな」
荒涼とした風景であった。赤茶けた岩石は乾燥しており、植物も生えていない。しかし、それでもまだここはましなのであった。
「将軍たちは発見された村で休んでいるんだろう?」
「ああ、街道から外れたところにアルバーバードって村があったらしい。本営はそこに移動している」
貧乏籤をひかされるのは、いつも下っ端だと男たちは呟いた。
「マハンまで行けば水が溢れているらしいぜ」
「けどよ、マハンの前に阿修羅の棲処があるじゃないか。ってほら、そろそろ例の場所だぜ」
兵士の一人が指差した。街道は北北西へと向かっているが、ずっと西にそびえていた岩山が次第に近づき、その場所で交差している。そこだけ岩山が途切れるようになっているので街道は普通に進めるのだが、岩山は街道をまたぐとまた北へと隆起していっているのだ。
阿修羅の顎と仇名される地形であった。もっとも、ミタン人がそう呼ぶだけであって、アーラーン人は別に特に名前など付けていない。
「ここらへんも戦闘があったらしいが‥敵はもう退いているみたいだな」
血などは流れてもすぐ乾燥してしまうのか、特に変わった様子は見られない。死体や装備などはすでに回収してしまっているようだ。
「知ってるか、連中は死体を鴉に食わせるらしいぞ」
「鴉は阿修羅どもの手下なのか?」
恐る恐る兵士たちが関門に差し掛かったとき、飛来した一本の矢が先頭の男の頭蓋に突き刺さった。
「て、敵襲だ!」
だが、何処から射てきたのか、と周囲を見回す間に、続けざまに飛来した矢が数人の兵士を倒していく。
「あそこだ! 上にいやがる!」
岩山を騎馬で上に登るのは難しい。兵士は弓を構えると、引き絞って狙いをつけた。視界には弓を構える銀髪の若者が映る。銀髪の若者は、笑っているように見えた。
ひょうと矢が若者に向けて飛んだ。若者は身軽にそれをかわした。男は味方に続けて射るように促そうとした。周囲を見回した男は、そこで自分以外の同僚が、すべて射殺されているのに気づいた。
「ばか‥な!」
男の脳裏に銀髪の若者の邪気のない笑みが甦った。そして、男の頭蓋にも矢が突き立った。
「手応えのない連中だね」
岩山の上でエルギーザは肩をすくめた。偵察の隊をこれで三つほどは潰しただろうか。ヒシャームのような華々しい活躍は苦手だが、こういう仕事は嫌いではなかった。この間押し付けられた弓隊の指揮などは御免蒙りたいところだ。
合図を送ると、暫くして数人の兵士が駆けつけてくる。そして死体を持ち運んでいった。エルギーザはそのまま岩山の上で気配を絶つ。
「次の戦いは凄惨なものになりそうだしね。ぼくはできることをやるだけさ」
一方、マハンにあるヴァリ聖廟に、アナスはシャタハートとヒシャームを伴ってやってきていた。ヴァリは昔の聖人で、病気や怪我を負った貧しい人を数多く救ったらしい。日乾し煉瓦で作った簡素な廟だが、祈祷のための護摩の火が、常に燃え続けていた。
三人を呼び出したのは、当然ナーヒードである。王女は若い神官を一人伴っていた。フーリから報告を受けて、早速神殿の協力を受けることにしたらしい。神官はぼさぼさの灰色の長髪をあちこち跳ねたままやってきており、第一印象はあまりよくなかった。
「彼はヒルカだ。大賢者ファルザームさまの弟子の一人。ちょうどマハンの聖廟管理官として来ていたので、協力してもらえることになった」
「どうも、ヒルカです、よろしく」
灰色の髪の神官は、あまりやる気がなさそうであった。眠そうな目で、彼は尋ねた。
「キアーさまの聖遺物があるとか。大抵の相手ならばそれで何とかなると思うんですがね。神殿の力が必要な相手なんですか?」
「黒槍は普段は力を封印している。易々と解放はできん」
ヒシャームが苦々しく言った。
「ああ、キアーさまのようにまだ使いこなせないということですか。それは仕方がない。今度、ファルザームさまに相談してみるといいですよ」
「余計なお世話だ」
ヒシャームに睨まれると、神官は肩をすくめた。
「やれやれ、嫌われましたか。わたしはあまり口がよくないみたいなんですよね。まあ、別に友達になりに来たわけでもありませんし、話を進めますか。要するに、ミタンの悪魔の邪術に対抗したい、とこういうわけですよね。まあ、ぶっちゃけて言うとわたしはそんなに派手なことはできないんですよ。地味な索敵とか、そういうのは得意なんですけれどね。何か、大規模に爆発とか起こして敵を薙ぎ倒したり、剣で斬られた人を治癒したりとかそういうことを期待されても困るんですよね」
アナスはちょっとがっかりした。大賢者の弟子というから、派手な大規模魔術みたいなのを期待していたのだ。
「じゃあ、何ができるのよ」
「そうですね、ちょっとやってみましょうか」
ヒルカは空中に手をかざした。すると、白い光球が現れ、宙を飛び始める。よく見ると、白い翼をもった小さな女性のように見えた。
「妖精です。わたしと感覚が共有できるので、索敵などには便利ですよ」
「空から見れるっていうの……それは凄いわね」
アナスとシャタハートはその有用性を認めた。これは思ったほど馬鹿にはできない。
「あと、回廊を開いた人とは、念話で会話をすることも可能です。とりあえず、わたしはファルザームさま、国王陛下と王女殿下に開きましたが」
「それは……各指揮官に開いた方がいいんじゃないかしら。あなたを中継して情報のやり取りができるじゃない」
あまり多くなると脳に負担がかかるということで、十人くらいが限界のようであった。とりあえず、アルデシルとアナスには回廊を作ってもらうこととする。サーラールやバームダードと回廊を作っておけたらと思うと、ヒルカの協力が遅かったのが残念でならない。
「ミタンの悪魔が手に負えないようであったら、わたしがファルザームさまに連絡を入れます。あとは大賢者にお任せということで、所詮わたしにはできることしかできませんからね」
確かに直接的な戦闘力はないが、ヒルカの能力は非常に強力なものであった。大賢者の弟子に相応しい力と言えるかもしれない。だが、灰色の髪の神官は自嘲気味に言った。
「いや、所詮わたしは不肖の弟子で……田舎の聖廟に左遷される程度の神官ですから、あまり期待しないで下さい」
ヒルカには早速妖精を派遣してもらうことになった。アナスたちは、今夜はマハンに逗留である。せっかく屋根のあるところに戻ってきたので、今夜はゆっくりすることにしたのである。エルギーザを放置していることに気づいたアナスは、ついでに単独行動の多いエルギーザにもヒルカの回廊を開いてもらおうと心に決めた。