第二章 ケルマーンの戦い -3-
フーリが力尽きたように転がっていた。この少女は大した剣の腕も持っていない。体力もそれほどない。ただの町娘に毛が生えた程度の力量しかないのだ。それが必死に戦い、生き延びたのだから褒めてやってもいいかもしれない。
「ふにゃああ……お腹がすいたですー」
アナスは拳骨をフーリの頭にお見舞いすると、放置することに決めた。なにか文句を言っているが、気にする必要はないであろう。
シャタハートが大きな羊挽肉を持ってきてくれる。無言でアナスは受け取った。疲れていたのだ。
六将のスミトラは強かった。あのヒシャームですら押されたのだ。橙色の闘気が、戦場を圧していた。アナスとシャタハートは、撃ち出される水の飛礫に、近づくことすらできなかった。あんな化け物が六将なのか。アナス程度の実力では、相手にもならない。
「何なのよ、あれは。反則じゃない」
呟くアナスの傍らに、鋼のように引き締まった体躯の男が座った。男は慰めるようにアナスの頭を軽く叩いた。
「あれがミタンの悪魔の力だ。まだいまに伝える者がいるとは思わなかった。体内に宿る七つの円輪を回すことによって強大な力を得ると言われている。あいつは二段階目の橙色まで発動していた」
「あの変な水を撃ち出す魔術みたいなのは?」
「赤色で大地を操り、橙色で水を操るのだ。呪文の方は大した使い手ではなかったので助かった」
危険な相手だ、とヒシャームは語った。自分のほかに相手ができる者がいるとしたら、サーラールだけであろう、と。
「いやあ、まさか急造の弓兵を押し付けられるとは思わなかったよ」
愚痴をこぼしながらエルギーザが帰ってきた。補充した歩兵二千を弓兵としたナーヒードは、その指揮を臨時にエルギーザに任せたのである。今回限りの任命であるが、さすがにエルギーザも緊張から解放されたようであった。
「相手の槍兵もこっちに上がってくるしさ……まあのろのろ来るからただの的だったけれど。羊を射ているようなものだったよ」
「楽しそうでよかったよ、エルギーザ」
シャタハートが羊の胃袋の水筒を渡すと、エルギーザは旨そうに水を飲んだ。
「スミトラはやばかったようだね」
「ああ。予想以上だった。花弁の力はミタンでも邪教とされていたと思っていたからな。誰かが復活させたのだ。おそらく、かなりの力を持っている。予想では、王子か、その近くにいるやつだ」
ヒシャームはかつてアナスの父キアーの傍らで、各地の戦いを経験している強者である。こと戦闘に関する知識はシャタハートも及ばない面もある。こういうときにはありがたい存在だ。
「だから、姫さまにちゃんと伝えておけよ。六将の危険さをな」
「ふに!?」
突然話題を振られ、フーリが飛び起きた。おバカな娘ではあるが、一応、監察官としての仕事はしている。もう少ししっかりしてほしいところではあるが。
「あんなのがいるようでは、神殿の連中の力が必要になる気がするぞ。神殿で偉そうにしているやつではなく、実行部隊の凄腕がな」
要請するのは王女の仕事だ、とヒシャームは言った。フーリはよくわかっていない顔をしていたが、これで彼らの話はちゃんと全部聞いていた。意味は理解していなくても、繰り返すことはできる。
「ほれ、とっとと行って来い。もたもたしてると連中の第二軍が来るぞ」
確かに、アーラーンはミタンの先遣部隊八千を潰走させた。阿修羅の棲処と生き残ったミタン兵に命名された盆地には、未だ多くの死体と打ち捨てられた聖なる牡牛の旗が残されている。
「逃げた兵から情報を聞き、第二軍も警戒するだろう。今日明日は大丈夫だろうけれどな」
だが、次はこううまくはいかない、とヒシャームは思った。ここの地形と罠が知られた以上、警戒して進んでくるのは間違いない。 単独で突っ込んでくることはもうないはずだ。
兵士たちが死骸の処理や武具・馬・物資の回収を始めている。六将のスミトラはさすがにいい槍を使っていたが、ヒシャームの黒槍が砕いてしまった。本来は、アーラーンの守護者と言われたキアーが使っていた伝説の槍である。普段はその力を封印しているが、解放すれば戦士の守り神である天空と風の神の絶大な力を発揮すると言われている。ヒシャームではその力を全て使いこなすことはできないが、スミトラの第二の円輪を上回る身体能力を発揮することはできた。だが、その代償にヒシャームは全身の筋肉に激しい痛みを感じていた。要するに、筋肉痛である。使いすぎれば、筋肉断裂や骨の異常も発生するかもしれない。これがあるから、迂闊に長期の戦闘中に解放することはできないのだ。
「次に来るのは誰かしらね。できれば、あんな化け物は勘弁してほしいけれど」
アナスのそれは軽口ではなく、珍しい本音であった。
ミタンの第二軍を預かるババールがその報告を聞いたのは、第一軍の敗北から三時間後のことである。かろうじて阿修羅の棲処から逃れてきた第一軍の敗兵が、ババールの第二軍まで到着したのだ。
「スミトラが討ち取られたじゃと!?」
輿に乗った老人は叫んだ。六将として最も長く君臨するこの老人は、実際の年齢はもう周りの誰もわからない。数百年は生きているのではなかろうか、とも言われている。ミタンの歴史より古い老人なのだ。
「あやつは第二階梯まで到達していたはずじゃが……それを打ち破るとは油断ならぬやつがアーラーンにもおるの」
ババールは行軍を止めた。どのみち、落ち延びてくる敗兵を収容し、再編しなければならないし、単独で進んでも危険なのはスミトラの死でわかっている。
天幕を張らせると、ババールは部下に立ち入りを禁止して中に入った。
大地に結跏趺坐し、第六の円輪まで発動させると、額に第三の目が開く。
(ケーシャヴァさま)
念話で呼びかけると、王子から応えがあった。
(何事だ、ババール)
(はっ……それが、第一軍が壊滅し、スミトラが討ち死にしたとの報告がありましたのじゃ)
(なんだと)
ケーシャヴァの驚きが伝わってくる。スミトラはケーシャヴァの愛人の一人でもあった。怒りの波動が、ババールの脳にまで到達してきた。
(爺に当たってもスミトラは生き返りはしませぬ。それより、アーラーン軍が意外と手ごわいことがわかりましたゆえ、爺はここで進軍を止めますじゃ。おそらく、スミトラが討ち取られた地までは一日ほどだと思われますが……。後続の到着を待ち、同時に進発したいと思いまする)
(余はまだナービッドの三叉路だ。ナユールをゴルバーフに向かわせる指示を出しておった。ちと、離れすぎたかもしれぬ。こちらの進軍を急がせるゆえ、爺も警戒しておれ)
(警戒はお解きにならぬがよいでしょうな。そろそろ、阿修羅の手の者が気がつく頃合いです)
(なに、まだ大丈夫だろう。ケルマーンを目指す姿勢は見せておるしな)
そこで念話は切れた。軽くババールは疲労を覚える。超人ババールとは言え、第六の円輪の長時間の行使はできない。
ケーシャヴァは楽観的であったが、ババールは一抹の不安を感じていた。守護者キアーを失ったとは言え、アーラーンを少し侮り過ぎていたかもしれない。
ババールは暫し考え込むと、今度は第五の円輪を回し始めたのである。