第二章 ケルマーンの戦い -2-
その日は、朝から緊張感が違っていた。ミタン軍の兵は未明から起き出し、携帯したパンと香辛料で味付けした肉などを頬張る。この先には敵が布陣しており、今日は戦闘になることは何となくわかっていた。
食事を終えると順番に行動に移る。盛り上がった壁のような岩山の連なりが、一部途切れている場所があり、道はその中に入っていっていた。
「阿修羅の巣だと言う話だ」
ぼそりと誰かか呟く。確かに荒涼とした地形は、人が住むものとは思えない。母なる大河が見守るミタンとは、明らかに違う。
阿修羅の顎を潜ると、やや開けた盆地になっていた。街道は北へと曲がり、南から西にかけては岩山が広がっている。
今までの行軍時の二列縦隊から、列の数が八十に増やされた。歩兵の外側の両列に騎兵も配備され、弓隊も後段に回される。
スミトラの命令とともに、進軍が開始された。浅黒い肌の女将軍は、部下には丁寧で居丈高ではない。だが、その力によって畏怖されていた。彼女は王子ケーシャヴァによって力を与えられ、六将となったのだ。
半日ほど行軍すると、街道に右への分岐があった。スミトラは、僅かに違和感を持った。斥候からは、この小径の先の報告はない。視界の先に緑が見えると言うことは、昨日北に見えたものと同一であろう。もう敵は目の前である以上、そこまで手が回らなかったのかも知れない。だが、村があるなどの報告くらいはあってもいいのではないか?
前線で、声にならない叫びが上がった。
右側の丘陵から雨のように矢が降り注ぎ、前段の槍兵を薙ぎ倒していた。
「敵襲だ!」
前段の槍兵に丘陵に上がるように指示を飛ばしたとき、副官が慌てたように叫び声を上げた。
「左方から騎兵、後方に向かっています!」
いや、正確には後方だけではなかった。一隊は右を向いた前段の後ろに食いつこうとしている。二隊は後段に向かい、弓兵に突入しようとしていた。
「騎馬隊を出しなさい!」
左列の外側にいた騎兵が迎撃に出る。初動が遅れているので、ある程度の損害は受けそうだ。
「後段の兵を前進させなさい!」
前方を見たスミトラは、前段が左右への対応で、完全に陣形を崩しているのを把握した。あれを手当てしなければ、正面からの敵は支えきれない。
「正面に騎影!」
だが、敵はそう簡単に回復させる気はないようであった。正面から騎兵が横陣を組んで突進してくる。その砂塵の余りの迫力に、味方の兵の腰が引ける。
「光の神の加護を!」
そこに、敵の騎兵が叫び声を上げて突っ込んでくる。シャーサバン騎兵は、王の部族に相応しく優秀な戦士だ。右側の騎兵を繰り出したが、勢いと数で負けて押し込まれている。左右からの奇襲で、槍兵と弓兵がうまく機能していない。その状態で騎馬に食いつかれたら、圧力を跳ね返すのは極めて難しい。
「わたしが出るしかないか」
スミトラは、会陰の第一の円輪を回し始める。身体が淡い光輪に包まれ、飛躍的に能力が向上したのを感じる。王子から戴いた大切な法力。発動させると、いつもケーシャヴァを感じることができる。
「コーシャは後ろに回った騎兵を処理しなさい! わたしは最前線に出て、敵の王を討ち……」
副官に指示を出していたとき、増大した聴覚が、その馬蹄を聞き付けた。右手からの馬蹄。右手にいる敵は、弓兵だったはずだ。
「これかぁぁ!」
感じていた違和感の正体。それにスミトラはようやく思い至った。右手にある小径から来る騎馬隊。先頭には、異様なほど禍々しい黒い鋼の槍を構えた黒衣の騎士が駆けてくる。あの男は危険だと、スミトラは悟った。
「あれはわたしが相手をする! コーシャは行きなさい!」
馬上で槍を構えると、練り上げた法力を纏ってスミトラは駆けた。
黒槍が唸りを上げて襲ってくる。スミトラは第一の円輪の力を全開にして槍を合わせた。驚くべきことに、槍は拮抗し、二人は擦れ違った。
「赤色の四花弁の力か。まだ使うやつがいたとは」
黒槍の騎士は驚いたように呟いたが、アーラーンの言葉はスミトラにはわからなかった。再度槍を振るうと、数合を撃ち合う。法力で上乗せされた力と速度が、この男には通じない。驚きたいのはこっちだ、とスミトラは思った。
「発動せよ!」
大地が隆起し、土槍が数本黒衣の騎士に襲い掛かった。第一の円輪を回したスミトラは、簡単な真言を幾つか扱える。だが、騎士は動じず、黒いオーラを発した鋼の槍で土槍を薙ぎ払った。
「ヒシャーム!」
赤毛の少女と、黒髪の青年が剣を構えて向かってきた。振るわれる斬撃は黒衣の騎士には劣るが、ここで手数が増えると侮れなくなってくる。スミトラは追い詰められたことを悟り、切り札を切るべきときだと決断した。
「第二の円輪!」
大地から吸い上げられた法力が、丹田で増幅されて体内に循環するのを感じる。まだ長時間使える技ではないが、これを使うしか勝てない、とスミトラは思った。
「橙色の六花弁まで使うかよ!」
強化された膂力と速度は、黒衣の騎士の槍を弾き返した。行ける、とスミトラは確信した。
「発動せよ!」
水弾を形成し、左右から迫る赤毛の少女と黒髪の青年を牽制する。二人は剣で水弾を払っているが、こちらまで攻めてくる余裕はなさそうだ。
神速の突きを黒衣の騎士に繰り出す。弾かれても、連続で繰り出す。更にもう一撃。更に一撃。
黒衣の騎士に余裕がなくなってくる。スミトラから発する橙色のオーラが、黒衣の騎士の黒いオーラを侵食していくのを感じる。
「ヒシャーム! キアーさまの黒槍を解放しろ!」
右にいる黒髪の青年が叫ぶ。黒衣の騎士は首を振った。再び、繰り出す突きが、黒衣の騎士の頬をかすめる。だんだんと圧倒し始めているのを感じる。だが、ここで時間をかけるわけにもいかない。第二の円輪は長くは続かないのだ。
「決着をつけるぞ!」
第一の円輪に吸い上げた法力を、ひときわ大きく第二の円輪で増幅する。
「発動せよ!」
氷で槍を強化すると、スミトラは勢いをつけてとどめの一撃を繰り出そうとした。
「くそっ……黒槍解放!」
いきなり、眼前の禍々しき黒いオーラが膨れ上がった。次の瞬間、繰り出したスミトラの氷槍が砕かれる。何が起こったかわからないまま、スミトラの眼前に漆黒の大槍が迫った。それがスミトラの見た最後の映像となった。
「ミタンの六将軍スミトラ、イルシュのヒシャームが討ち取ったぞ!」
戦場にヒシャームの雷声が響き渡ると、スミトラの軍は総崩れとなった。だが、彼らには脱出するべきところがなかった。後方の阿修羅の顎は、回り込んだ騎兵隊が塞いでいる。右の小径からは、最後に現れた騎兵隊が進撃してくる。前方は敵の国王自ら率いる精鋭だ。
結局、彼らは武器や馬を捨てて丘陵を越えて逃げ出した。
アーラーンの軍は彼らを追い討ちに討ったが、半数の四千ほどは逃走したと見られた。ただ、武器も馬も物資も捨てて逃げ出した彼らは、すでに軍隊としての態は成していなかった。
ケルマーンの戦いの緒戦は、アーラーンの大勝利に終わったのである。