第十七章 ヒステールの波濤 -11-
勝機が去ったのは、理解していた。
あと一歩のところまで追い詰めていながら、ブレーデリンを取り逃がした。何度も剣を振るいながら討てなかったのは、バシアヌスの責任でもある。悔恨が残るが、もはや手の中から去ったブレーデリンを討つ手段はない。
時間的に、カストロ・レギーナの防衛も厳しい頃である。バシアヌスとティトリアが外に出て、防御のバランスも崩れているのだ。今更城内に戻っても、持ちこたえるのは不可能であろう。
全てを賭けた作戦に失敗した以上、致し方ないことであった。それでも、ウルディン父子の命を投げ出した犠牲がなければ、ブレーデリンは討ち取れていたはずである。ウルディンはティトリアが、ドナートはバシアヌスが討ち取っていたが、その間に大魚を逃したのであった。
「アウルスさま、敵が退いています。いまのうちに離脱を」
ティトリアが生き残った兵を纏めて戻ってきた。八百いた騎兵も、五百ほどに減っていた。バシアヌスは後退するブレーデリンと、カストロ・レギーナから出てくるジュリオ・カヴァリエーリを見て、素早く頭を働かせた。
「作戦は失敗だ。カストロ・レギーナは陥ちる。後退して、ブルグンド軍と合流しよう」
バシアヌスの隣に来ていたクリングヴァルは、小さくため息を吐いた。神の雷霆まで使って仕留められなかった敵は初めてである。フリジアの英雄たる経歴に汚点を残してしまった。悔いが残る。
「ティトリアはジュリオに伝令を。こちらは城の南を回って森に紛れる。殿軍は任せたと」
獣の民は騎兵の兵団だ。歩兵の部隊の速度では、必ず追い付かれる。カヴァリエーリは、それを承知で城外に出てきたのだ。その思いは無駄にできない。
「ぼくは別行動しよう。竜の巨体は目立つからね」
クリングヴァルは白銀の竜を舞い上がらせた。
「ブルグンド軍にカストロ・レギーナが陥ちたことは伝えておこう。アウグスタ・ヴィンデリコルムも攻撃を受けているようだし、獣の民がブルグンド王国まで侵攻してくる可能性もある。戦略の再構築が必要なようだし、アウルス卿も生き延びてくれ」
一礼し、クリングヴァルは飛び去っていく。バシアヌスは、部下に声を掛けると、駆け始めた。
指揮官を討たれたウルディンの兵は、まだ統率を取り戻していなかった。
ブレーデリンは右翼を率いていたウルディンの弟のバルタザールを臨時の指揮官に格上げしたが、混乱は収まっていなかった。
バシアヌスはそのお陰もあり、戦場からの離脱には成功した。途中、小さなはぐれ部隊とは何度も遭遇したが、血路を斬り開いて押し通ったのである。
ジュリオ・カヴァリエーリは暫くバシアヌスの撤退を援護していたが、ブレーデリンが追撃を掛けてこないので、殿軍を中止。部隊を解散して各自で森の中に逃げるように指示を出した。
カストロ・レギーナを制圧したブレーデリンは、追撃を差し控えた。一時的に封じられた加護は復活していたが、そのせいでやや慎重になっていたのである。
バランベル、オクタル、バルタザール、ラスファルグナスなどの諸将をまとめたブレーデリンは、アウグスタ・ヴィンデリコルムを攻囲するルモ・ジナフュルに、ミヒャエル・アラーベルガーへ降伏を勧めるよう指示を出す。
降伏勧告を受けたミヒャエルは、苦渋の決断を強いられることになった。
アウグスタ・ヴィンデリコルムに後詰めがあれば、ミヒャエルはパヴァリア人の他の族長たちを説得して抵抗を続けたかもしれなかった。
だが、竜騎士と第七軍団の敗残兵を収容したブルグンド王国軍は、アウグスタ・ヴィンデリコルムの救援を不可能と判断し、ヴォルムスガウに撤退した。
孤立したミヒャエルは、勧告を容れ、ルモ・ジナフュルに降伏した。近辺のパヴァリア人に顔か利くミヒャエルが降ったことで、ブレーデリンはかなり行動しやすくなったのである。
ラエティア属州の北半分を失ったメディオラヌムの教皇は、バシアヌスの失態に激怒した。バシアヌスの軍事力に頼りきっていた教皇にとって、第七軍団の壊滅は致命的である。彼が頼れる指揮官は、もはやメディオラヌムにいる第二軍団のルキウス・スティリコだけであった。
ヴァンダル人とフルム人の混血であるスティリコは、本来出世できる立場にはいなかった。だが、それでも教皇が本拠地であるメディオラヌムの防衛を任せたのは、女好きで忠誠心の薄いバシアヌスに比べ、教義に対する信仰とメディオラヌムに対する忠誠心の篤さであった。
テルヴィンゲン人との戦いでは、スティリコはバシアヌスに比べても遜色ない武勲を上げている。彼にダルマティアとガリアの戦力を委ね、クラウディア・アウグスタ街道を北上してラエティアの奪還を図る。
教皇はメディオラヌムの存続を図るにはそれしかないと考え、準備に取り掛かった。
一方、ブルグンド王国は窮地に陥っていた。
単独では、ブレーデリンの西進は止められない。竜騎士の伝手でフリジア人との連携はできるかもしれないが、フリジア人はさほどの大族ではない。北方のノルム人の援助が得られれば勝てるかもしれない。ザクセン人やサリー人、テルヴィンゲン人にも助力を仰ぎたい。
一番の問題は、ブレーデリンの進軍速度の疾さであった。
獣の民の騎馬兵団は、森に集落を作って住んでいたゲルムの各部族の軍の移動の常識を超えてくる。結局、ブルグンド王国の援軍も、カストロ・レギーナ陥落に間に合わなかったのだ。
ブルグンドの王グンダハールは、クリングヴァルにノルム民族のスヴェーアの族長ベルティル・オーデルバリへの使者を依頼する。オーデルバリの海賊船団なら、徒歩よりも早く援軍に駆け付けられるはずである。
ガリアのルグドゥルムとドゥロコルトルムにいる帝国軍団は、正直あまり当てにならない。だが、近辺に住むガリア人のハエドゥイ部族とベルギカ人のネルウィ部族を動かすなら、帝国を通じて行うしかない。それは、バシアヌスがやるしかなかった。
大陸西方を混乱させる獣の民の軍団であったが、ブレーデリンは性急に進撃せず、一度ユヴァウムに退いた。アウグスタ・ヴィンデリコルムはそのままミヒャエル・アラーベルガーに任せ、カストロ・レギーナにはブルガール部族のオクタルを入れた。南門を破ったオクタルの武功に報いる形を取ったのである。
何とか余裕ができたように感じた西方諸国であったが、それは錯覚に過ぎなかった。
雪辱に燃えるグルドゥンギ部族のアマラスンタが、パンノニアを南下しダルマティアを窺っていたのである。ダルマティア属州のスパラトゥムには、帝国の第二十一軍団が常駐していた。ダルマティアの現地民であるイリュリア人や、獣の民にパンノニアを追い出されたランゴバルド人の部族兵もおり、メディオラヌムの教皇の生命線と言える地域である。だが、教皇はここから兵力を移動させようと計画しており、その計画に水を差される形となったのである。
天空神の残滓とも言えるメディオラヌムは、絶体絶命の窮地に陥っていた。




