第十七章 ヒステールの波濤 -10-
囲まれた。
加護を封じられ、馬から落とされ、四方は敵兵ばかり。ウルディンは女騎士と渡り合い、ウルディン麾下の直衛は先程の神の雷霆の余波で半壊している。
まさに絶体絶命である。これほどの死地に、用心深い自分が陥るとは、思いもよらぬことであった。
思えば、竜騎士に釣り出された。
シグルズ・クリングヴァルほどの戦士は、獣の民にもそうはいない。無論、ニルガルをその身に宿すエツェルは別格であろう。だが、巨人の王を討ち取るほどの戦力は、並みの兵では相手にできない。ウルディンほどの剛の者でも押されたのである。自分が出るしかなかった。
それもアウルス・コルネリウス・バシアヌスの手の内だったのか。此処まで計算に入れていたとしたら、なかなか大した男である。落日の帝国に、まだこれほどの男がいたのか。
頭上から刃が降ってくる。
叫び声を上げながら、バシアヌスが剣を降り下ろしてくる。転がったときに、剣は手から離れていた。いまのブレーデリンは、無手であった。
だが、まだ終わりではない。ブレーデリンはかっと目を見開くと、剣の腹を左手の籠手で払った。バシアヌスの体が泳ぎ、馬が駆け抜ける。ブレーデリンは咄嗟に跳躍すると、転がっていた剣を拾い上げた。そこに、三人の騎兵が殺到する。
一本目の槍を捌くが、馬蹄が迫ってきたので、横に転がらざるを得ない。だが、そこにも敵の騎兵が密集している。次々と伸びてくる槍の穂先を斬り落とすが、然程の銘ではない剣は、すぐに切れ味が落ちてくる。変装のため、剣も甲冑もあまりいいものは装備していない。
斬り落とした穂先がそのまま伸びてきて、ブレーデリンの脇腹を突いた。痛みに顔を歪めながら、ブレーデリンは後ろに吹き飛ばされる。そこにバシアヌスが斬り込んできた。ブレーデリンは身を捻って刃をかわしたが、密集する馬蹄が上からブレーデリンを潰さんと襲ってくる。
二つまでは避けたが、その隙に別の騎兵の剣が鉄製の冑をかすめる。一瞬意識が飛び掛けるが、唇を噛み破って耐えた。此処で意識が途絶えた瞬間に死ぬのはわかりきっている。
咆哮が聞こえ、ウルディンが包囲の一角に飛び込んできた。ティトリアが後ろから追ってきているが、彼女の相手よりブレーデリンを優先したのだろう。二人の傭兵が頭を割られたが、背後からティトリアの斬撃を浴び、ウルディンの甲冑も砕かれた。
ブレーデリンもまた、獣のような咆哮を上げていた。落馬した騎兵に駆け寄ると、手綱を捕まえて空いた鞍に飛び乗る。斬り込んできた傭兵の頭を剣で殴り付け、伸びてくる槍の穂先を抱えて奪い取る。そのまま奪い取った槍を旋回させたブレーデリンは、馬腹を蹴って包囲からの脱出を図った。
「逃がすな!」
慌ててバシアヌスは追いすがった。回り込むように二騎がブレーデリンに迫る。右から来る騎兵に槍を突き刺すと、衝撃で槍の柄が折れた。その隙に左から別のウラルトゥ傭兵が斬り込んでくる。イェレヴァンでの恨みをウラルトゥ人は忘れていない。刃は左肩の甲冑に食い込んだが、ブレーデリンは折れた槍の柄で突き返し、道を開いた。
ブレーデリンの視界に、十騎ばかりの獣の民の小隊が飛び込んできた。生き残りのウルディンの部下が、近くの味方を纏めて駆け込んできたのである。
「陛下!」
先頭を駆ける決死の形相の騎兵は、ウルディンの息子のドナートである。五百騎を率いてバシアヌスを迎撃したものの、ティトリアの突破を許してしまった。神の雷バシアヌスに霆の余波があったとは言え、許されざる失態である。この戦いで生き延びても、ウルディンはドナートを許すまい。すでに己は死したものとして、ドナートはウラルトゥ傭兵に槍を振るった。
背後の部下から援護の矢が飛来する。ブレーデリンに斬り掛かる二騎が射落とされる。ドナートはそのまま駆け抜け、ブレーデリンを追撃するバシアヌスに馬体をぶつけた。
「おのれ!」
バシアヌスはドナートを斬り下げるが、鮮血を撒き散らしながら若い騎兵はバシアヌスに掴みかかった。同時にバシアヌスの刃がドナートの胴を貫く。口から血を吐きながら、それでもドナートはバシアヌスの体を押し、一緒に馬から転げ落ちた。
その間にブレーデリンは駆け続け、ついに味方の部隊がいる位置まで到達する。リンドブルムの氷の息吹によって正面の部隊は一掃されていたが、両翼の部隊は健在である。ブレーデリンと合流した兵は忽ち千を越え、ウラルトゥ傭兵の追撃を断った。
だが、ブレーデリンは無理をしなかった。
兵を纏めると、一度下がって態勢を立て直すことにする。各将に伝令を走らせ、状況の確認も同時に行った。
南門を攻めていたオクタルが、メルクーリの頑強な抵抗を突破して、城内に突入していた。第七軍団でも最も部隊指揮が巧いメルクーリであるが、流石に兵が足りなかった。飽和攻撃を受け、城壁を乗り越えられたのだ。
それでもメルクーリは侵入した敵兵を排除しようと懸命に戦ったが、四方から矢を受け、動きが鈍ったところを討ち取られていた。南門から市街にかけての抵抗は、すでに散発的になっている。
各方面を守備していた大隊長たちも、南門が破られたのはすぐに察知していた。城内に敵が侵入した以上、もう持ちこたえることはできない。
西の城壁を守備していたヘルベルト・アラーベルガーは、激しさを増すバランベルの攻勢を前に、城門を開いて撃って出ることに決めた。このままでは全滅は免れない。ならば、一か八か包囲を突破して脱出することにしたのである。アウグスタ・ヴィンデリコルムまで逃げれば、父のミヒャエルがいる。この周辺はパヴァリア人の縄張りなのだ。獣の民の好きにはさせたくなかった。
アラーベルガーの一隊は、バランベルの包囲を六段までは撃ち破った。だが、城攻め用に下馬していた部隊ではなく、野戦用の騎兵が出てきて、勢いを止められる。
足の止まった歩兵は、騎馬に囲まれては為す術がなかった。アラーベルガーは三本の槍を同時に受け、力尽きる。部隊の兵で生き残った者はいなかった。
北の城壁を守備していたランベール・シャリエは、ラスファルグナスの猛攻をよく凌いでいた。彼は南門が破られたことも知っていたし、アラーベルガーが脱出に転じたことも掴んでいた。だが、彼は北の城壁から動こうとはしなかった。彼はまだバシアヌスがブレーデリンを討ってくれると信じていた。あと少し待てば、敵は退却していくだろう、と。
だが、結局、ラスファルグナスは退却せず、シャリエは南門から回ってきたオクタルの兵に後背を突かれた。
腹背に敵を受けたシャリエの部隊は、僅かな時間で全滅した。シャリエ自身も百を超える傷を全身に負い、それでも斧で敵兵な頭を叩き割りながら相討ちで心臓を槍で貫かれ、絶命した。
東の城壁にいたジュリオ・カヴァリエーリは、バシアヌスの作戦が九分九厘成功していながら、最後の詰めを逃したのを見ていた。
彼は配下の兵を連れ、東門から外に出る。今更もうブレーデリンを討つのは無理であろう。だが、突出したバシアヌスは救わねばならぬ。歩兵のカヴァリエーリの部隊は逃げられないが、騎馬のティトリア隊ならまだ逃げられるかもしれない。ならば、援護の必要があった。
カストロ・レギーナは陥ち、第七軍団は壊滅だ。だが、バシアヌスが生きていれば、まだ軍団の再建はできる。カヴァリエーリは、それが自分の最後の仕事になるであろうと予期しながら、氷漬けになったウルディンの兵たちの間を抜け、走った。