第十七章 ヒステールの波濤 -7-
カストロ・レギーナの城壁は、ゲルム民族の襲撃を予想して造られているため、高くて厚い。その城壁の上に立ち、シメオン・メルクーリは彼方から迫る砂煙を睨み付けていた。
南東から迫るそれは、万を超える規模の軍勢の移動を顕している。千の部下を抱えるメルクーリであったが、これだけの人数を相手に防衛戦が可能なのかどうか、理性はすぐに結果を弾き出す。
無理だ。
部隊運用に長けたメルクーリだけに、はっきりとわかってしまう。普通にやれば、すぐにこの城は落ちると。
だが、生憎とバシアヌスには普通にやる気はなかった。
城壁の下を駆ける弓騎兵が矢を上に向けて射掛けてくる。城壁の上からは、それに倍するような矢が下に向かって降りそそいだ。明らかに射手の人数よりも多い弾幕である。
連弩だ。一回の射撃で、十本の矢を放つ機械弓である。大型で移動には向かないが、拠点防衛には絶大な威力を発揮する。この連弩が、カストロ・レギーナの城壁には多量に設置されていた。
城壁の下からの射撃は、威力、手数ともに撃ち負けて、弓騎兵は撤退を余儀なくされる。
メルクーリがほっとする間もなく、次の敵が前進してきていた。長い梯子を抱えた兵が、次々と現れる。メルクーリは、射手に通常弾ではなく、火箭を準備させた。油を詰めた瓶に火を点けた矢である。
メルクーリの号令とともに火箭が空を飛び、梯子に突き刺さって燃え上がった。梯子を運ぶ兵にも火が燃え移り、絶叫が上がる。だが、煙をかきわけるように幾つかの梯子が城壁に立て掛けられた。野獣の如き軽快さで、獣の民の兵が城壁の上に登ってくる。初めに立った二人の兵を幹竹割りに斬り捨てると、メルクーリは叫んだ。
「取りつかせるな! 三番隊と四番隊で城壁に登ってくる敵の排除を行え!」
メルクーリの指示で二百人ほどが梯子から登ってくる兵の排除に専念する。獣の民の先遣隊は、身軽さと膂力に優れた精鋭だ。狼のような吠え声を上げると、第七軍団の訓練を積んだ兵士をも軽々と吹き飛ばす。メルクーリの部下は、一人が盾で攻撃を受けている間に、もう一人が槍で突き殺す作戦で、素質に優る獣の民の兵を斃していく。
敵の第一波が去ったときには、メルクーリの部下たちは疲労困憊になっていた。辛うじて撃退したが、損害も軽視できない。
「死者十二、負傷者五十八です」
部隊の一割弱がやられたわけだ。敵の損害は三百ほどであろうか。蚊が刺したほどのこともないだろう。
「敵の様子はどうだい、シメオン」
バシアヌスも高楼から様子は見ていたが、実際に戦闘を行っていたのはメルクーリである。現場の意見を聞きたかった。
「まるで本気ではありませんな。全面攻撃の前の小手調べでしょうか」
メルクーリは苦労していたが、もし全面攻勢を掛けられたら、そもそもメルクーリだけで撃退など不可能だ。彼だけで追い返せたと言うことは、軽い牽制であったと言うことだ。
「ブレーデリンは見たか?」
「いえ、先遣隊を率いているのは、ウルディンです。獣の民の族長では有名な男です」
ブレーデリンが前回囮に使った四人の中で、最もブレーデリンらしく見えた三番目の男だ。あれが、ウルディンである。離れたところからでも、その存在感がわかる恐ろしい戦士だ。
「東はウルディンか。北には、ロクソラニのラスファルグナスが回ってきていた。こちらには、ランベールを手当てしてある。南と西にはまだ回り込んでいない」
「明日には来るでしょうな。ブレーデリン麾下の族長は、バランベルやオクタルも来ていたはずです。ですが、まだ軍団の全容を明らかにしようとしていない。相変わらず慎重な男です」
「だが、カストロ・レギーナはおれたちの庭だ。ブレーデリンのいる場所さえわかれば、やつの息の根を止めてやるものを」
バシアヌスは歯噛みする。斥候や間者を入れても、ブレーデリンの本陣の位置だけは掴めない。ブレーデリンとて、各族長に指示は出しているはずである。それなのに、その流れが掴めないのだ。自分の位置の秘匿には、異常に気を使っている。それだけに、やつを引きずり出して首を刎ねることが出来れば、どんなに胸がすくだろう。
それから数日過ぎても、ブレーデリンの姿は見えなかった。ウルディン、バランベル、オクタルの三人の獣の民の族長に、現場の指揮は任せてしまっているのだろうか。ウルディンの攻めは苛烈を極め、バランベルは矢を射掛けるだけで動かず、オクタルは次第に包囲を狭めてきている感じがある。ウルディンの攻めを受けていたメルクーリの部隊は損害が激しく、南門のジュリオ・カヴァリエーリと交代せざるを得なかった。
メルクーリの部隊運用能力は、第七軍団随一である。交代したカヴァリエーリは、その事実を思い知らされた。まず、千人程度で抑えられる攻撃ではない。慌ただしく津波のように押し寄せてくる敵兵に対処しようとするが、どうしても処理し切れない。怒濤の攻めに押され、制圧されそうになったところに、バシアヌスがティトリア隊を増援に回してくれた。それで何とか押し返す。
「シメオンが四百人も部下を失うわけだね」
精魂尽き果てた表情でカヴァリエーリは呟いた。いつも身なりに気を使うこの男が、血と汗と泥にまみれた鎧を着けたまま、動こうとしない。僅かな時間戦っただけのティトリアも、目の光が弱くなっていた。
だが、今日は東だけではなく、北も激戦となっていた。ロクソラニのラスファルグナスが、俄然やる気になって猛攻を加えてきていたのだ。血の気の多いラスファルグナスゆえ、犠牲を恐れぬ力押しで攻めてきていた。ランベール・シャリエは投げ斧を大量に用意してロクソラニ兵の頭に斧を叩き込んでいたが、こちらも長くは戦線を維持できそうになかった。
バシアヌスも、状況はよくわかっていた。だが、どうしてもブレーデリンの本陣の場所が掴めない。まるで、ブレーデリンは指揮を採っていないかのようである。
いや、本当に指揮をしていないのかもしれない。初めに方針だけ伝えた後は、四人の指揮官に任せている可能性がある。それならば、指揮伝達から居場所を探すのは限りなく不可能になる。
「いや、連絡を取っていない以上、戦況が見える場所にいるはずだ。南と西が動いていないと言うことは、北東のこのあたりを探せばいい。この丘の上とか怪しい場所だ」
バシアヌスは、ブレーデリンの位置を推測し、伝令に伝える。もうそんなに猶予はない。これで発見できなければ、カストロ・レギーナは陥ちるだろう。
難しい顔で唸るバシアヌスの隣で、護衛の兵が小さな叫び声を上げた。訝しげに顔を上げたバシアヌスは、大きく目を見開いている兵に、どうしたと問い掛ける。
「西の空から、なにかが急速に接近してきます……かなり大きなものが……」
「鳥か?」
バシアヌスも兵の指す先を見てみる。なるほど、確かに翼の生えた蜥蜴のような何かがこちらに向かってきている。いや、あれは間違いない。竜だ。竜族の王のような巨大さはないが、それでも馬車くらいの大きさはある。
その竜の背に、一人の槍を構えた騎士が乗っているのを見ると、バシアヌスの脳裏に閃く名前があった。
「フリジアの竜騎士……シグルズ・クリングヴァル……か?」
ゲルム民族で一番の英雄、フリジア人の族長の跡継ぎが、何をしに飛んできたのか。
もう白銀の竜に跨がる金髪の若者の顔も判別できるくらい近付いてくる。若い騎士が槍を掲げると、槍から雷がウルディンの兵に向けて放たれる。雷撃は十数人の兵士を黒焦げにし、さすがの獣の民たちも腰が引けた。