第十七章 ヒステールの波濤 -4-
リンツはウィンドボナとユヴァウムの中間に位置し、ケルトの蛮族からフルム帝国を護るために造られた砦である。往年は此処にも一個軍団が配備されていたのだが、ゲルム民族の波に飲み込まれ、軍団として成立する人数を揃えられず、離散していた。
それでも、リンツには一個大隊、千人の帝国兵が駐屯していた。かつてカルヌントゥムの砦に駐屯していた第十四軍団、その生き残りである。アマラスンタは先を急いだので、リンツには手を出さず、放置して進んだ。だが、ブレーデリンは敢えて陣を構え、リンツを陥とす姿勢を見せた。
リンツからは、当然ユヴァウムに救援を求める早馬が出る。ブレーデリンは、わざとそれを通してやった。
ウィンドボナの降伏とリンツの包囲は、バシアヌスにとっては状況の悪化をもたらす報である。バシアヌスを責める者は、更に勢い付くだろう。前回のゴート人との戦いで、バシアヌスは楽に勝ち過ぎてしまったのかもしれない。将帥も兵も勝利は簡単に手に入るものだと思っている連中ばかりである。
第八軍団六千と第九軍団五百は、リンツの第十四軍団を見捨てることはできぬと、何かに酔っているような科白とともにユヴァウムを出ていった。バシアヌスは、彼らとともに行く場合と、行かない場合の勝率をシミュレートしてみたが、一緒に向かった場合は全滅する未来しか想定出来なかったため、出撃を断念した。
ぁ
「軍団長、おれたちは行かなくてもいいのか?」
第七軍団の大隊長の一人、ヘルベルト・アラーベルガーてある。彼はフルム人ではなく、カストロ・レギーナで雇われた地元のバヴァリア人であった。バヴァリア人の気質なのか、糞真面目で堅苦しく、曲がったことをしない男である。
「軍団長が行けと言わないうちは、羽根を伸ばしていればいいのさ。最も、堅物のヘルベルト君を相手にしてくれる奇特な女性がいればの話だがね」
瀟洒な絹の服を都会的なセンスで着こなしているのは、メディオラヌムで軍に入ったジュリオ・カヴァリエーリである。アラーベルガーと同じ大隊長であるが、こちらは軽薄さが透けて見える。
東の帝国から亡命してきたシメオン・メルクーリは、黙して語らなかった。ヘレーン人は弁舌家が多いと聞くが、メルクーリはほとんど喋ったことかない。だが、バヴァリア人のアラーベルガーよりも、フルム人のカヴァリエーリよりも、軍の組織運用についての見識は高く、兵の動かし方は隙がなかった。
ランベール・シャリエは、サリー族の出身である。西方にサリー王国を作る彼らは、教皇派の帝国とは極めて仲がいい。最近補充もままならない帝国軍でも、サリー人の補充はよく回ってくる。特徴のある二本の投げ斧を腰に差したシャリエであるが、それ以外は蛮族らしからぬフルム風の服を纏っていた。
クィントゥス・ティトリス・パウルスとその娘ティトリアに至っては、バシアヌスの部下と言うより上司であるように見えた。フルム人らしく理知的な父娘であったが、日常生活にだらしのないバシアヌスに対しては小言が多くなるようである。
こんな六人の大隊長を抱えたバシアヌスは、立ち入り禁止にした執務室で物を投げて鬱憤を晴らしていた。
パウルスが冷たく厳しい目でバシアヌスを射抜くと、上官はようやく腹いせをやめ、大隊長たちに顔を向けた。
「相手は五万の精強な騎兵だぞ。リンツまで出ていって、勝機があると思うか!?」
「第八軍団と第九軍団は、一日で全滅するでしょうな」
こう言うときは、みなパウルスに任せて口を開かない。同じ大隊長であるが、みなパウルスを第一の序列であると認めているのだ。
「ただでさえ、三軍合わせて一万二千を超える程度の人数なのだ。それが半分に減ってみろ。貴様とて、置物を蹴り飛ばしたくなるわ」
「それでも、敵は軍団長を平野まで引っ張り出したかったのでしょう。ですが、閣下は耐えられた。すなわち、勝機を掴んだと言うことではありませんか」
何度出陣の命を出しそうになったか。バシアヌスとて人間だ。臆病者と嘲笑されたくはない。しかも、この噂をばら撒いているのは、腹立たしいことに敵のルモ・ジナフュルなのだ。一人だけ捕まえた密偵の背後を洗うと、このアラニ族の族長の名前が出てきた。敵は完全にバシアヌスだけを標的に戦いを仕掛けてきている。
今回の指揮官のブレーデリンといい、このルモ・ジナフュルといい、なかなか一筋縄でいかない連中だ。いまのフルム帝国の軍団長で、こいつらの相手ができる者がはたして何人いるか。
「リンツに向かった友軍は、すぐに壊滅する。そうすれば、さすがに敵もリンツを陥とし、西進して来るだろう。こちらは、やはり森の地形に頼るしか方法はない」
それでも、五万の騎兵を相手にまともに戦うことはできない。狙うのは、敵の指揮官の首である。そして、こう言うときに突破役として任を与えられるのは、アラーベルガーとカヴァリエーリの二人である。メルクーリとシャリエは撹乱などの支援任務に長け、パウルスはどんな任務でも水準以上にこなす。
ティトリアは、第七軍団唯一の騎馬隊であった。突破力は随一であろうが、今回は森の中なので出番がない。精々追撃のときくらいであろうか。
迎撃の布陣を決めながら、バシアヌスは進撃していった第八軍団と第九軍団のことを考えた。帝国の現状を考えると、喪われた軍団の補充はほぼないと思っていいかもしれない。メディオラヌムの教皇は、あまり現実的な男ではない。ガリアにはフルム帝国の拠点はほぼないと言っていい。友好的なゲルム民族と手を握って何とか誤魔化しているが、バシアヌスの護るノリクム属州が陥ちれぱ、すぐにメディオラヌムの危機に繋がるのだ。
それだけに、ヒステール河岸を護る軍団へのバックアップは必然である。だが、教皇は度重なる戦いに疲弊する軍団に、物資や兵員の補充をしばしば滞らせた。壊滅し、再編できずに消え去った軍団も多い。パンノニア守護の四個軍団が、壊滅後そのまま消え去った事実を見てもわかる話だ。つまり、バシアヌスは戦力が減るとそれを回復させることができないのだ。
それだけに、第八軍団と第九軍団の突出が痛かった。貴重な兵力の無駄遣いでしかないのだ。虎が顎を開いて待ち受けているところに頭から突っ込んでいくのだから手に負えない。
十日後に味方の敗報は届いた。予想通りの壊滅である。二人の軍団長も討死していた。軍団長は自業自得だが、付き合わされる兵はたまったものではない。
リンツの守備兵も全滅し、砦も陥とされた。
ブレーデリンは、いよいよ腰を上げて、ユヴァウムに向けて進軍を開始してきた。想定の範囲内ではあるが、現実にこうなると短剣を喉元に突き付けられているかのような圧迫感を覚える。
だが、こいつを斃さないと、エツェルと向かい合うことすらできない。難儀なことだ、とバシアヌスは曇り空を見上げた。