第十七章 ヒステールの波濤 -3-
ゴート人が敗れた一報は、鳩によってその日のうちにエツェルにもたらされた。敗北自体は兵家の常と問わないエツェルであったが、敗北の内容については眉をひそめた。読む限り、アマラスンタはほとんど一方的にやられている。如何にゴート人が獣の民より柔弱と言えど、帝国の兵にそこまで叩きのめされるほどではないはずだ。事実、ゴート人たちは、ウィンドボナでは一方的に帝国軍を鏖殺している。
そうすると、原因は兵ではなく、将にあると見るべきであった。新たに戦線に加わった軍団の将が、アマラスンタを敗走させ、ファルスを血の海に沈めたのだ。
何日かの後に、エツェルの許にその将の名前が届いた。
フルム帝国第七軍団の軍団長アウルス・コルネリウス・バシアヌス。北の狼と呼ばれる帝国の北方戦線を支える重鎮である。かのコルプロと並び称される将帥に、エツェルの血も沸き立つ思いであった。
だが、タイミングが悪い。円卓会議まであと二ヶ月と連絡が来たばかりである。もう一ヶ月もすれば、戦闘禁止期間に入ってしまう。バシアヌスを叩きのめすには、ちょっと時間が足りなかった。
エツェルは暫し熟考すると、弟のブレーデリンを呼び寄せた。ブレーデリンは地味ではあるが、堅実で隙のない用兵を得意とする。エツェルのような激しさはないが、戦場で彼が敗れた姿はまだ見たことがない。
エツェルは、彼にアラニのルモ・ジナフュルとロクソラニのラスファルグナス、二つのサルマート軍団を補佐に付けて西方に送り出すことにした。一ヶ月で戦闘禁止期間に入るが、ノリクム属州はミクラガルズの皇帝の支配下にない。ティレニア半島のメディオラヌムに本拠を置く教皇の支配下にある。フルムの皇帝はエルを奉じ、その神権によって皇帝位に就いていたが、教皇はデイオスを奉じている。ゆえに、円卓会議に参加しないデイオス教徒の支配地域ならば、戦闘禁止には引っ掛からないと強弁することもできる。
教皇派の帝国軍の最大の短所は、各地でゲルム民族の流入が相次ぎ、都市と都市を寸断され、孤立し掛けていることである。バシアヌスだからこそ、ユヴァウムからカストロ・レギーナ、そしてアウグスタ・ウィンデリコルムの連絡線を維持できているのだ。だが、もっと西方の地では、フルムの軍団は半ば属州を放棄し、サリー族やテルヴィンゲン族、ブルグンド族などのゲルム諸族の侵入を許していた。
バシアヌスを破れば、ノリクム属州からラエティア属州はほぼ手中に収めたも同じてある。アウグスタ・ウィンデリコルムから一気に南下して、インスブルックからトリデントゥム、ヴェローナと陥としていけば、もうメディオラヌムは目の前だ。
無論、形骸化した教皇領など放置して、ゲルム諸族の王国を片付けることもできる。最も近いのが、ヴォルムスガウに拠点を持つブルグンド王国。次に、マインツを拠点とするライン王国。そして、ネメタクムを本拠とするサリー王国。更にはトロサを本拠とするテルヴィンゲン王国である。これらのゲルムの諸王は、メディオラヌムの教皇から王位を与えられ、フルム帝国の支配下に収まってしまっている。エツェルとしては、この邪魔な諸王を片付けたかった。
だが、とりあえずはバシアヌスだ。彼を倒せば、北方の戦いは終わったも同然だ。エツェルは弟に、バシアヌスを倒すのに全力を尽くせ、後は倒した後に連絡するとだけ伝えたのである。
アマラスンタとアルダリックからは、雪辱の機会を与えて頂きたいとの届出が出されたが、今回はその要請は突っぱねた。バシアヌスに良いようにやられた二人がいれば、下手に張り切って罠に嵌まるのが目に見えている。此処は堅実なブレーデリンと、才知に長けたルモ・ジナフュルの組み合わせに期待するべきである。
エツェルは長男と次男をパンノニアに残し、三男を連れて円卓会議に出立することにした。東では、活発に動いていたアシンドラが、手傷を負って撤退したらしい。彼の神ニヌルタは、エツェルの神ニルガルでも正面から立ち向かえるか微妙なほどの力の持ち主である。全神の中で最も速い男に傷を付けるとは、その相手もなかなかやるものだ。その相手に興味があったエツェルであるか、あまりはっきりした報告は入ってこなかった。太陽神の使徒の一人ゲブラ・エルが派遣されていたらしいが、仮にも大神が使徒如きにやられるとは思えない。
ブレーデリンと彼に従う獣の民の騎兵二万騎、サルマート人の騎兵三万騎がブラチスラヴァに集結する。ゴート人の軍団は歩兵中心の編成であったが、獣の民もサルマート人も、生粋の遊牧民だ。その真価は騎馬戦で発揮される。
先のゴート人の出撃基地の役割を担っただけでもブラチスラヴァの負担は相当であったが、今回はその四倍近い兵が集まって来ているのだ。食糧や馬糧があっと言う間に底を突き、価格が高騰し始めている。
ブレーデリンは、アマラスンタに命じてアクィンタムから物資を運ばせることにした。大体、アマラスンタたちが、気前よくユヴァウム郊外の戦いで物資を投げ捨てて来るから窮乏しているのだ。せめて、輸送くらいは役に立ってもらわないと困る。
運ばれてきた食糧を確保してから、ブレーデリンはウィンドボナに向けて進軍を始める。騎馬隊のみの編成の割りに、並足でゆっくりした進軍である。
それでも、ウィンドボナまではすぐである。翌日にはウィンドボナの城壁の外に到着した。ウィンドボナは城門の修理も済んでおらず、その気になれば瞬時に陥とせるだろう。だが、ブレーデリンは此処でも城外に天幕を張り、ゆっくりと待った。
ウィンドボナに戻ってきていたのは、少数の限られた住民だけである。属州総督は無論、第九軍団も戻ってはいない。
ブレーデリンが獣の民とサルマート人の軍団を伴ってブラチスラヴァに入ったのは、帝国の密偵にも筒抜けだったはずである。食糧の調達やゆっくりした移動のせいで、情報を持ち帰る時間もたっぷりあったはずだ。
ユヴァウムには、ウィンドボナの住民から救援の要請は届いているはずだ。バシアヌスはそれを握り潰せるのか。ルモ・ジナフュルが更に間者を放って、ウィンドボナを見捨てる帝国軍の悪い評判を流している。これでも自制が効くようなら、真に恐るべき相手だとブレーデリンは思った。
ブレーデリンは、ウィンドボナの城外でバシアヌスが動くのを待った。森の中で戦えば、騎馬を生かせぬ味方が不利になる。ユヴァウムまでの街道は、森の中を横切るものが多いのだ。できるだけ、東にバシアヌスを引きずり出したい。
だが、それを承知しているバシアヌスは、鋼鉄の自制心で耐えていた。第八軍団や第九軍団の軍団長は、ウィンドボナの救援を主張している。いざとなれば逃げ出す癖に、こう言うときだけは威勢がいい。東に兵を進めないバシアヌスを、臆病者呼ばわりしているようだ。第九軍団の軍団長など、ゴート人に敗れてウィンドボナを捨てて逃げてきた癖に、どの口がそれを言うか。
ブレーデリンもバシアヌスも動かなかったが、ウィンドボナの住民の限界が先に来た。元々虐殺と掠奪で長期の籠城どころかその日の食事にも困窮していたのだ。餓死するよりかは、とウィンドボナの住民は揃ってブレーデリンに降伏を申し入れた。
ブレーデリンとしては、思惑とは異なる結果になってしまったが、降伏してきた一般人を殺しても仕方がない。とりあえずは降伏を受け入れる。だが、軍の物資の供出はしなかった。そこまで甘くはない。
ブレーデリンは役目を終えたウィンドボナを早々に発つと、ユヴァウムへの道筋にあるリンツ砦へと向かった。今度は、そこで同じことをするつもりであった。