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紅星伝  作者: 島津恭介
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第十七章 ヒステールの波濤 -2-

 森を利用しての奇襲は思惑通り巧くいった。


 少人数で、長居をせず、一撃与えてさっと退却したのもよかったのたろう。


 先頭を進むヘルール族は数十の死傷者を出し、ファルスが激昂して追ってきたが、森に慣れた帝国兵を掴まえることはできず、暫くして諦めていった。 


 バシアヌスは戦果を大々的に公表し、ゴート人恐れるに足らずの機運を作り出した。奇襲を成功させた第七軍団(パテルナ)大隊長トリプヌス・ミリトゥムであるクィントゥス・ティトリウス・パウルスは、バシアヌスの信頼する老獪な右腕である。一緒に行った第九軍団(ヒスパナ)軍団長レガトゥス・レギオニスのティトゥス・アティリウス・レグルスは、臆病者だがプライドの高い扱いにくい人物だった。それを上手くなだめすかして奇襲を成功させたのだから、パウルスの手腕は大したものだ。


 パウルスはバシアヌスの兵法の師であり、戦略から剣の使い方まで軍人としての生き方の全てをこの老人が教え込んだ。そんなバシアヌスであるが、彼にはパウルスから教わったものではない悪癖がひとつあった。


 女癖の悪さである。


 来る者拒まずで数多の女と遊んで回るバシアヌスは、その功績の割りに帝国上層部の受けはよくない。帝国の死活を握るシャームにコルプロが派遣されているのに対し、バシアヌスは蛮族が徘徊する北方戦線に貼り付けられている。正直、今までのケルト人相手の防衛戦なら、バシアヌスがいなくても勝てるのである。


 だが、時代は彼を放ってはおかなかった。


 エツェルに率いられた獣の民(ノヨンオール)の侵攻により、大陸西部は様々な民族の大移動が始まっている。帝国の誇る四個軍団を以てしても、パンノニアひとつ守り切れなかったのだ。


 今こそ己の名を上げるとき、とバシアヌスは血を昂らせ、その血を鎮めるために何人もの女を必要としていた。


 パウルスが帰還したのは、そんな間の悪い時間であった。老人は無言で上官の部屋に侵入すると、半裸の女性に服を投げて叩き出した。


 自堕落な格好で髪を掻き上げながら、軍団長レガトゥス・レギオニスはぼやいた。


「もう少し掛かると思っていたけれど、存外早かったねえ。第九軍団(ヒスパナ)を置いてきたのかい」

「纏まって動いては目立ちますからな」


 パウルスは大真面目に言った。上官は肩を竦め、年長の部下に向かって頭を下げた。


「いや、悪かったよ、一人で羽根を伸ばしてさ。でも、計画は順調に進んでいるんだよ。怠けていたわけじゃない。本当さ」

「少なくとも、祝杯を上げるのは、パンノニアから蛮族を全て追い払ってからにするべきですな」

「いやいや、パンノニアの敵は第七軍団(パテルナ)の任務範囲外だと思うけれどねえ」


 パウルスがそんな戯言を聞き入れるはずがなかった。バシアヌスは不承不承服を着て起き上がる。


「もう次の作戦の準備は出来ているんだよ。いつでも開始できる。クィントゥスたちを待っていたんだ。」


 パウルスが奇襲に出掛けている間に、すでにバシアヌスは次の作戦の準備を終えていた。兵の展開は終了しており、後は始めるだけになっている。パウルスは若干の不信を滲ませた目で上官を睨んだ。


 バシアヌスは悪びれずに笑うと、作戦の内容を話しながら外に出た。今回の作戦は奇襲に参加した部隊を省いている。だから、ゆっくりしていても構わないのだが、パウルスは自分が参加しない作戦が不安だった。


 そんなパウルスに、バシアヌスは苦笑しながら肩を叩く。


「今回の作戦には、そんなに傑出して勇猛な将はいらないのだ。誰が行っても勝てるように作戦を立てている」


 バシアヌスの大言は、すぐに証明された。


 予定した地点で敵と遭遇した第七軍団(パテルナ)の二個大隊が、劣勢を装って退却する。先の奇襲で頭に血が昇っていたヘルール族の兵は、さして深くは考えずに後を追う。


 気が付いたときには、ヘルール族は八方を伏兵に囲まれていた。勇猛なファルスも、この包囲を突破することが出来ずに針鼠のように矢を浴び、絶命した。


 後続のアルダリックが駆け付けてきたときには、すでにヘルール族の兵は半分以下に減っていた。


 ファルスの死とヘルール族の壊滅を知ったアマラスンタは、行軍を止めた。状況を確認すれば、ファルスは退却する敵部隊を追撃して深入りし、伏兵に包囲を食らったらしい。周囲の敵を探り出すまで、迂闊な前進は控えるべきであった。


 ヘルール族は千以上の死傷者を出し、もはや一軍として機能しない。巨漢揃いのヘルール兵は、力尽くの突破には得難い戦力であり、それが喪われたのは痛手である。


 だが、この程度の事態は父や夫を喪った獣の民(ノヨンオール)との戦いに比べれば、大した問題はない。まだグルドゥンギの精鋭は残らず揃っているのだ。


 兵は、森の様々な場所に伏せられているようであった。偵察に向かった小隊が、伏兵にやられて帰還してこない事態が頻発している。アマラスンタは、まるで出口のない袋に入れられたような気がした。


 父ならば、夫ならばこの事態にも巧く対処できたのであろうか。だが、アマラスンタを護ってくれていた家族はみな殺されてしまった。アマラスンタは、自らの力で逆にみなを護らねばならないのだ。


 思わぬ事態にアルダリックも顔色を悪くしながらやってきた。ゲピド族はグルドゥンギの支族であるから、アルダリックもアマラスンタの指揮の下で動くことになっている。だが、野生の獣のような剽悍さを持つアルダリックは、独自の判断で動くことも多かった。そのアルダリックが、判断に迷っているような態度を顕している。


「何処に行っても伏兵にぶつかる。こんなに敵の兵がいるはずがないんだが」

「……想定される敵兵の数が、五、六万を超える気がします」


 包囲の輪がじりじりと狭まってきている。このままでは全滅しかねない。事実、包囲に嵌まったヘルール族は、半数を討たれて壊滅したのだ。どんな魔術を使っているかはわからないが、この敵将は並みの力量ではない。


「一度退きましょう。敵の総数がわからない以上、闇雲に攻めるのは危険です。態勢を立て直し、場合によっては援軍を要請します」


 アマラスンタの意見に、アルダリックも反対はしなかった。ゲピド族の猛将は、撤退の方針を受けるとすぐにアマラスンタの許を辞し、自軍へと帰っていく。


 アマラスンタも、グルドゥンギ族の部隊長を集め、撤退の指示を下す。物資などは諦めて置いていかなければならない。撤退中の追撃が、一番被害が大きいのだ。


 ゴート人が敗走する後ろから、次々と帝国軍の伏兵が湧いてくる。無限に続くかと思われる追撃をかわしきったとき、グルドゥンギ族も甚大な被害を被っていた。


 物資も失い、継戦能力がなくなったゴート人たちは、安全なブラチスラヴァに向かって足取り重く撤退していく。


 バシアヌスは、特別なことをしたわけではなかった。ただ、伏兵がいると見せ掛ける囮を用意し、ゴート人たちに包囲されていると勘違いさせただけである。それでも、パウルスの奇襲や、ヘルール族の壊滅で、ゴート人たちは疑心暗鬼にかられてしまった。むしろ、力尽くで突破した方が被害は少なかったかもしれない。アマラスンタは、最後までバシアヌスの想定通りに動いてくれた。それが決定的な敗因となったのだ。


「さて、次はエツェルが出てくるかな」


 ゴート人など、バシアヌスにとっては敵ではない。彼の瞳は初めから獣の民(ノヨンオール)を見据えている。パンノニアを帝国から奪い、四個軍団を壊滅に追い込んだ男。戦いの神を自称し、冥界の女王の剣を以て戦場に死をばら撒く英雄。


 ケルト人やゲルム人相手では味わえないような高揚感を覚える。バシアヌスは、用兵家としてコルプロに負けると思ったことはなかった。だが、世間の評価はコルプロを第一とし、バシアヌスを第二としている。飄々としながらも、それをバシアヌスは気に掛けていた。


「来るなら来い、このアウルスを抜けるものなら、抜いてみろ」


 独白は宵闇の中に消えていった。

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