第十六章 ディーヴァの脅威 -10-
カーブルまで撤退した。
余力がなかったか、ヘテルの軍は追撃して来ず、無事に退却することが出来た。
アシンドラとアスパヴァルマの負傷に加え、兵の損耗もそれなりに大きい。特に先陣でアナスの爆炎を食らったキアナの部隊は、大きな損害を出していた。
ヘテルなど鎧袖一触にするつもりであったアシンドラにとっては、この敗北は手痛いものであった。例え敵に摩利支天がいようとも、アシンドラにとっては何の問題もないはずであったのだ。
「油断……であろうな」
城の露台から屹立する山脈を眺めながら、アシンドラはひとりごちた。アナスに灼かれた傷口は、未だに癒えぬ。神焔にも、破壊の槍のように回復の力を阻害する働きがある。並みの神ならば、あれで灼き尽くされて終わっているところだ。
山並みには、雲が掛かぬっていて薄曇りとなっていた。
アシンドラは何気なくその雲を眺めていたが、いきなり雲間から光が差し込んでくると、頭の中に声が鳴り響く。
(手酷くやられたようだな、ニヌルタよ)
仰々しい登場の仕方である。こう言う虚仮おどしが好きなのだろう。アシンドラにはわからない性格である。機嫌が悪そうな声で彼は声に応えた。
「何の用だ、梵天」
(そう尖るでないわ。そなたの西進に合わせてパルミラに兵を進める予定であったのに、これではこちらがシャームに攻め込まれるわ。太陽神め、こちらに使徒を集めてきておる。そなたには使徒一人を派遣しただけであろう。遊ばれていたのだよ)
声は内に抱える憤懣をぶつけるかのように言い募った。アシンドラの機嫌は更に悪くなる。一応味方であり、手を組んでいる相手であるが、本質的に彼は他者の自分に対する優位を認めるタイプではない。傲岸な叔父に対して敬慕の念など存在しない。
「もう一度言う、何の用だ」
不機嫌なアシンドラの口調に、創造神も揶揄する雰囲気を改めた。エルは戦士と言うより技術者であり、直接的な戦闘は得意ではない。そんな彼にとって、カールティケーヤの存在は誠に有り難いものである。迂闊に機嫌を損ねてよいものではない。
(円卓会議の日程が決まったのだ。二ヶ月後、神の門にて執り行われる。常の如く、円卓会議の前後一ヶ月は神々による私闘は禁止される)
大体予測通りの日程である。だからこそ、アシンドラは私闘禁止の前に勢力を拡大すべく北進していたのだ。だが、流石にもう円卓会議前に進撃するのは難しい。更には、二ヶ月の間に神の門まで辿り着かねばならないのだ。遅れれば不参加になり、意見を述べる資格を喪う。
(今回の円卓会議は、イシュタルがマルドゥクを斃したために惹き起こされた。当然、イシュタルはこの円卓会議の期間中に仕掛けてくるであろう)
「わかっておる。恐らく彼奴は、太陽神を神々の王に推してくるであろう。すなわち、光明神、太陽神、そして、そなたの三者の争いになろう」
(イシュタルの計画はこちらの送り込んだ密偵で把握している。円卓会議の最中に行動を起こすつもりなのは間違いない。そなたも身辺警護は怠りなくするのだな)
円卓会議の法は、裁定神の定めたものだ。最も虚空の記録に精通し、神々を滅ぼす力を持つ裁定神に逆らう愚を、彼らは犯したことはない。だが、光明神と同様に、裁定神もまた物質界不介入の方針で行くつもりなら、それなりに打つ手はあるのだ。
「そう言えば、日天と吉祥天がそちらに向かったのか?」
(そうだ。ミーカールとデリ・ディル・エルの二人だ。太陽神が復活したために、厄介な奴らも活動してきよる。シャームは我が帝国にとっては絶対防衛線。その戦況が思わしくないのは、頭が痛い)
「ネボでも動かすんだな。ケメトの軍団を北上させれば、ミーディール軍も横腹を突かれて崩れざるを得まい」
マルドゥクの息子であるネボは、エルにとっては孫に当たる。だが、対マルドゥクの戦いでは、父を裏切ってイシュタルに味方をしたネボだ。何を考えているのかわからないところがあり、信用も出来ない。だが、とりあえず利があれば味方になるのは確かである。いまはエルの持つ技術を欲しており、当面ネボはエルの味方と考えてもいいだろう。
「神の門で弁財天たちが仕掛けてくる内容については予測は付いているのか?」
(円卓会議の採決は、過半数を以て決と為す。つまり、五票を集めねばならん。今のところ、五票を持つ勢力は存在しない。切り崩して味方に付けるか、大神の母数を減らして三票を過半数にしてしまうか、恐らくは後者を目論んでいるであろうな)
円卓会議の前後一ヶ月ずつは神の私闘は禁じられている、だが、イシュタルがそんな常識の枠組みで測れるような女であろうか。
否、彼女の奔放さは、何者の束縛も赦さぬであろう。創造神のような厳しい戒律で人間を支配、統制しようとするでもなく、光明神のように人間の自主性に任せて放置しようとするわけでもない。
太陽神は何処まで承知しているのか。カールティケーヤの知る太陽神は、少なくとも他者の傀儡になるような人物ではない。快活で陽の気に溢れているが、苛烈な面も持ち合わせている。その意味では性格は兄妹似ているのかもしれない。貞操概念は大分異なるようであるが。
「しかし、戦争神と冥府の女王は最凶の夫婦だぞ。如何に太陽神と弁財天と言えど、迂闊な手出しは出来ぬと思うが」
(戦争神は大陸の西に向かったようだし、冥府の女王は南に敵を抱えておる。火種は何処に転がっておるかわかったものではない)
それに、イシュタルは理屈や常識では語れないタイプの神だ。本当に、何をするかわからない。彼女なら、円卓会議の席上で、いきなり神剣を抜いて斬り掛かってくる可能性だってあるくらいだ。
「とりあえず、余は神の門を目指す。貴公はシャームの防衛に全力を尽くせばよかろう。パルミラのゼノビアを殺せば、彼奴らも名目を失って退かざるを得まい。まずはあの雌狐を何とかすることだな」
シャームに駐屯する軍団を統括するグナエウス・コルプロは、間違いなくフルム帝国随一の名将だ。パルミラのゼノビアも油断ならぬ女性であるが、まともに戦えばコルプロが負ける目は有り得ない。だが、ミーディール軍団とパルタヴァ騎兵も援軍に加わっており、戦線は膠着状態に陥っていた。
ジャハンギールのイルシュ騎馬隊と、アルシャクのパルニ騎兵は、まともにぶつかれば甚大な被害が出る相手であり、野戦は得策ではない。しかも、相手には太陽神の使徒が二人も加わっており、余計に迂闊な突出は控えねばならない。
北のアンティオキアと南のディマシュカ。
コルプロはこのシャームの二大都市の防備を固めての籠城戦を続けていた。アンティオキアを突破されれば、キリキアからリュディアも危険地域になる。そうすれば、帝都ミクラガルズまでは目の前だ。そんな事態だけは避けねばならぬ。
雲間から差し込む陽光が薄れていくのに従って、創造神の気配も消えていった。戦闘の力は然程でもないが、こう言う手妻は得意な男である。
アシンドラは、エルの思念を見送ると、再び山並みに視線を移した。ヒンドゥークシュ山脈の雄大な山々が、アシンドラを圧倒してくる。
神の門で待ち受けるものが何であろうと、破壊の槍を持つ限り自分に敵はいない。未だ癒えぬ神焔の傷を押さえながら、アシンドラはそう自らに言い聞かせた。