第十六章 ディーヴァの脅威 -9-
破壊の槍に込められた圧倒的な神力の奔流は、眼下で戦闘を続けるアフシュワルたちを震え上がらせるのに十分な迫力があった。
ヘテル本隊の最精鋭と言えど、生身の人間である。大神の本気の力に耐えられる者はいない。兵は武器を力なく下ろし、馬も怯えて立ち尽くしていた。
本来ならミタン王国軍の好機であったが、ミタンの韋駄天たちもまた、カールティケーヤの威に当てられて動けずにいた。戦場は期せずして奇妙な静けさが支配し、誰もが上空を見上げて体を震わせていた。
アナスもまた静かに双剣を構えていた。
だが、それはカールティケーヤの神威に当てられていたのではない。落ち着いて冷静にその双眸で破壊の槍の動きを見ていたのだ。
破壊の槍はカールティケーヤの神気を吸収し、膨大な破壊の力を撒き散らしていた。その柄がゆっくりと引かれ、力を溜めた一撃が閃光の如く放たれた。
槍の穂先は、アナスの心臓を狙っていた。最大限に高めた神速がカールティケーヤの動きを捉える。アナスが僅かに身をよじると、槍はアナスの脇腹に突き刺さった。同時に解放された破壊の力が、アナスの全身を吹き飛ばそうとする。
み「させるか!」
突然破壊の槍が蒼き神焔に包まれた。破壊の震動が荒れ狂うが、神焔に阻まれて拡散できない。
思わぬ結果にカールティケーヤが槍を離して逃げようとするが、アナスの双剣の斬撃の方が速かった。
右手の一撃がカールティケーヤの左肩から袈裟斬りにし、左手の一撃が甲冑の上から胴を薙いだ。
「ぐわっ」
傷口から蒼き神焔が吹き上がり、さしものカールティケーヤもたたらを踏んだ。追撃に移ろうとしたアナスも、脇腹の痛みに体が硬直し、動けなかった。
「みたいな!」
槍を引き抜いたアナスに、ザリチュが生命力を与えて回復する。脇腹を貫かれた痛みが引き、アナスは自由を取り戻した。
カールティケーヤも破壊の槍を呼び戻し、傷口を灼く神焔を消し去る。だが、巨人の膂力で抉られた上に神焔で灼かれた傷口は、回復もできずにカールティケーヤの生命を大きく減らしていた。
「よもや、余に手傷を負わせるとはな……」
カールティケーヤの最大の攻撃を懐ろまで呼び込んで受けたことで、アナスは刃を大神に届かせることが出来た。どんなに素早くても、あの一瞬は止まっている。回避や受けていては間に合わない。槍をわざと食らって初めて刃をカールティケーヤに届かせることが出来たのだ。
「もう一度掛かってきなさいよ。次で止めを刺してあげるわ」
ザリチュに傷は癒やしてもらったものの、脇腹を抉られた感覚はまだ生々しく残っている。それでも、アナスは双剣を構え、神焔を吹き上がらせた。
カールティケーヤは舌打ちした。アナスやザリチュは無論のこと、スラオシャですら大神から見れば取るに足らぬ相手である。円卓会議が後に控えている以上、此処で死力を尽くして損耗するわけにもいかない。ヘテルを蹂躙し、更に北上する予定ではあったが、旧クザン諸侯を膝下に置いただけでも成果と言えなくはない。
「止めておこう。余は引き上げる。次は円卓会議で見えようぞ、裁定神よ」
カールティケーヤが破壊の槍を振るうと、予備に控えていたシャンカラが前進してくる。すでに気力体力ともに限界のヘテル軍は、鋭気溢れる新手の突入に算を乱した。
その隙にキアナはアスパヴァルマを救出し、部隊を整えて後ろに下がっていく。殿軍を務めながら、シャンカラの部隊も次第に離脱していった。
アフシュワルを始め、ヘテル王国軍にそれを追う余力はなかった。バダフシャン侯とティルミド侯の軍は、キアナに翻弄されて手酷くやられている。シェンギラとスフェイラの部隊も前半アスパヴァルマに痛め付けられた損耗が激しく、アフシュワルの本隊はアシンドラ麾下の精鋭との対決にもはや馬を駆る気力もない有り様である。
「痛み分けではあるが、どちらに余力があるかは一目瞭然であるな」
カールティケーヤは槍を振って血を払うと、アナスたちを牽制しながら下がっていった。
アナスは双剣を構えたまま、それを見送った。カールティケーヤの姿が小さくなり、遠くに見えなくなると大きく息を吐く。彼女の傍らにザリチュがふよふよと飛んできて、軽く肩を叩いた。
「終わりみたいな?」
ザリチュの問い掛けに、アナスは小さく頷いた。
「そうね。あちらさんも円卓会議前に損耗するのは避けたいみたいだし、とりあえずはこれで終わりだと思うわ。そうでしょ、ボルール」
ザリチュの後ろにいた女祭司に、アナスは声を掛ける。ボルールの顔はひどく疲れが見えていたが、アナスは頓着しなかった。
「そうでしょうね。ひとまずは円卓会議まではあちらも動かないでしょう。アフシュワルは随分とやられたみたいですが、生き残っただけでも僥倖です。今のうちにこちらもバクトラまで引き上げましょうか」
そう言い残すと、ボルールはアフシュワルの許に向かっていった。アナスとザリチュの任務もこれで終わりであろう。アナスは神焔を消し去ると、双剣を鞘に納めた。神速も解除すると、一気に溜まっていた疲労が押し寄せてくる。張り詰めていた緊張が切れ、弛緩してしまったのだ。
「いやー、引き上げてくれて助かったわ。これ以上、あんな化け物との戦闘はとても無理だったもの」
「でも、円卓会議には、あれが来るみたいな! 水と豊穣の女神もだし!」
「円卓会議の開催中は、神々の戦闘禁止で本当によかったわ。さもなければ、命が幾つあっても足りやしないわ」
愚痴を溢しながら、アナスはヒルカを経由してファルザームに状況を報告する。アシンドラとミタン王国軍が退却し、当面バクトラは安全になるだろう。ヘテルも疲弊し、スグディアナにちょっかいを掛ける余力もないだろうから、東の国境はそれほど警戒しなくてもよさそうだ。
(そろそろ円卓会議に向けて出立しなければならぬ。早めに戻ってくるのじゃな)
(……ファルザームさまは労りの心が足りない気がするわ)
他の大神と違い、光明神は自らが物質界に顕現して物事を処理することはあまりない。物質界のことは人間に任せればいいと言うのが光明神の考えであり、だからこそ他の神々と相容れないのだ。
しかし、裏を返せば神々に対してアナスのような人間が立ち向かわないといけないため、あまり有り難い話ではなかった。大神なら、光明神が自分で出てきて他の大神を斃してもいいのてわはなかろうか。
全ての大神が集結する円卓会議のことを考えると、気が重くなるアナスであった。