第一章 赤毛の小娘 -9-
ユニーク100を突破しました。
模擬戦用の刃を潰した剣を二本受け取ると、サルヴェナーズは錬武場に入った。錬武場の観戦席は、物見高い観客で一杯になっている。悪意の籠った観客の視線に晒されながら、対戦相手の少女は静かに佇んでいた。
噴火する前のマグマのような静けさであった。下手なちょっかいをかければ、こちらの全てを呑み込むような猛々しさを見せそうである。その真紅の双眸には、決して勝利を疑わない輝きか宿っていた。
「いやですわ……なんて若い……そして眩しい」
この娘が、あのアーラーンの守護者、偉大なる英雄の忘れ形見なのだ。十二年前には魂が狂わんばかりに恋い焦がれ、その死に一時は後を追おうとしたほどの男。
イルシュの大族長キアー。
そして、その娘がここにいる。
「キアーさまの霊に誓って、手を抜くような失礼はできませんね」
双剣を構えると、サルヴェナーズの背後からサーラールが現れた。今日の模擬戦は、彼が審判を務める。要するに、彼が納得すような戦いを見せろ、とそういうことなのであろう。まさか、さすがにこの少女が勝つとは彼も思っていないはずだ。そんなことを思っていようものなら、離婚である。
赤毛の少女が剣を構えた。圧力は感じない。意外なほどの静けさだ。気配を消し去っている、と感じるほどだ。
「赤毛の小娘が……舐めた態度をとりおって」
観客席からの声はアルデシルであろうか。あんな禿げた老人などどうでもいい。不思議なほど気を感じないのに、足を踏み入れたら食われかねない、そんな予感がサルヴェナーズの背筋を貫く。
「……面白い」
サーラールが呟いた。この男は他人事だと思って好きなことを言う。やるのは自分なのだ。勝手に試合を決めておいて、面白がっている場合か、と思う。
「用意はいいか……。一応、刃は潰してあるが、剣は剣だ。殺すような攻撃は禁止だ。寸止めでやれ。少々の打撃は仕方ないが、寸止めでもちゃんとおれがどっちが有効打か見定めてやる。贔屓はしないから、安心しろ」
喧騒がだんだんと遠くなっていく。感覚が研ぎ澄まされていくのがわかる。
目の前の赤毛の少女、目に映るのはただそれだけ。
サーラールの右手が振り下ろされた。
{はじめ!」
その瞬間、右手は上から、左手は下から。ほぼ同時の斬撃を少女に繰り出した。
「サルヴェナーズのやつ……らしくない手を」
観客席からシャタハートは呟いた。開幕いきなりの奇襲。そこからの連撃。どちらかというと防御主体の戦い方を常とするサルヴェナーズにとって、これはいつもの戦法とは違う手だ。
確かに斬撃は苛烈であり、怒涛のような二十連撃は並みの相手なら瞬殺であったであろうが、シャタハートの弟子はそれくらいでやられるような剣士ではない。
流し、弾き、かわしてその開幕の奇襲を何とか耐えしのぐ。サルヴェナーズの攻め手が止まったとき、アナスの額から一気に汗が浮き出てきた。それだけ集中していたのであろう。
「汗を止めていられるくらい集中していれば大丈夫だ。だが…ここからだぞ」
開幕の連撃で仕留められなかったサルヴェナーズの警戒心は上がっている。ゆらゆらと双剣が幻惑するように流れ出し、そして舞うように回転し始めた。
「出たな。だが、それは勉強済みだ」
アナスは前進しなかった。連撃を耐えしのいだ位置にとどまり、剣を正眼に構えて動かない。汗はまた、止まっていた。
動かないアナスに、観客から罵声が飛んだ。ただサルヴェナーズの剣舞を見ているだけでは面白くない。第二騎兵大隊の連中や、ルジューワの取り巻きたちは、アナスが無様に負けるところを見にきたのだ。
「仕掛けてくる気はないってことかしら!」
サルヴェナーズは叫び、弧を描くような斬撃がアナスを襲った。手が出ず、少女はかろうじて身をひねって逃れる。合わせようとしていたら失敗していた。まだ目で見てから反応しようとしている。
集中しろ!
アナスは弱りかける自分の心に叱咤する。見るのはサルヴェナーズの口もとだ。彼女の呼吸に合わせるのだ。舞を踊っている間、サルヴェナーズはずっと息を吐いている。吸う瞬間を見極めるのだ。それが、まだ見えていない。集中力がまだ足りない。
また思わぬ角度から斬撃が襲ってくる。今度は何とか剣で弾き返した。と、その瞬間に逆側からも刃が迫ってくる。アナスは距離を詰めることでかろうじて逃れる。同時に膝蹴りが腹に入ってきた。
「ぐっ……」
「剣だけだと思ってませんか?」
たまらずアナスは後ろに逃れた。いまの同時攻撃は散々シャタハートにやられた手だ。それでも、まだ対応し切れていない。腹にいい蹴りをもらい、体が重く感じる。だが、そんな泣き言を言っている場合ではなかった。集中だ。サルヴェナーズは息を吐いている。まだ吐いている。まだ…。吸った、ここだ!
異なる角度から軌跡が襲ってくる。一撃目を弾くと、二撃目はきれいにかわす。初めて余裕をもってかわせた。これなら、いけるかもしれない。
「シャ、シャタハートさん、いまのはよかったんじゃないですか!?」
心配そうに手すりにかじりついていたフーリが振り返った。シャタハートは頷いた。
「機はつかんだようだ。次が勝負だな。見ろ、アナスの気が整えられ、乱れがなくなっていく。サルヴェナーズは、剣の後ろのアナスの姿が消えていくように感じられるはずだ。焦りは、迂闊な攻撃を生む」
アナスはまっすぐ正眼に構えて立っていた。呼吸を止め、身じろぎひとつしない。ただぼうっとどこかを見ているように見えるが、集中は極限まで高まっていた。
すっとアナスの剣が僅かにずれた。ほとんど、動きといえるほどもない、僅かな距離である。だが、アナスの静かな気配に心を動揺させていたサルヴェナーズは、その誘いに引っかかった。
ふっと呼気が漏れると、上からと横からの斬撃がほぼ同時にアナスに襲い掛かった。
刹那の瞬間、極限までに集中したアナスは、体感している時間の流れが遅くなるように感じる。横からの斬撃が僅かに上からより速い。アナスは、左手に装備した手甲で横からの斬撃を受け止める。衝撃で体が横にずれようとするが、構わず右手の剣で、上からの斬撃に刃を合わせた。
何が起きたのか、サルヴェナーズにはわからなかった。
必殺の一撃を少女に叩き込んだはずが、目の前に刃が突きつけられている。
「サルヴェの斬撃を斬り落としての交差法だと……」
さすがにサーラールも唖然としていた。いくらサルヴェナーズの斬撃が重くないとは言え、タイミングを間違えれば頭を砕かれかねない。しかも、あんなカウンターを決めるには、かなりの練習が必要になるはずだ。
「おい、審判、判定、判定」
客席からの声に、サーラールは我に返った。アナスの右手を取ると、頭上に掲げる。
「勝者、イルシュのアナス!」
客席に視線を移すと、端整な黒髪の青年が拍手していた。物腰には隙がなく、所作にはアナスに通じるものがある。先ほどの声も彼のものであろう。何の証拠もないが、サーラールはこの青年が、アナスを鍛え上げたのだろうと直感した。
「おまえはアナスの師匠か」
「剣はわたしが教えたよ。わたしはキアーさまの剣の一番弟子だからね」
キアーの一番弟子。ならば、サルヴェナーズの剣筋をなぞることも可能であろう。サルヴェナーズの剣が通用しなかった謎が解けて、サーラールは獰猛に笑った。
「おまえたちの隊長はおれが認めよう。まだ文句を言うやつがいたら、おれが相手になってやる」
客席から怒号が響き渡った。アルデシルが騒いでいるようであるが、サーラールは歯牙にも掛けない。
「左手は大丈夫か? まともに斬撃を受け止めたようだが」
左手を押さえているアナスを見て、サーラールは言った。
「半分流したから、折れてはいないと思うわ。でも、痛いのは痛いわね!」
「あんな無茶をやって、その程度で済んだんだ。幸運だと思うんだな」
しかし、最後の斬り落としの速度は異様であった。サーラールですら、途中からは目で追えなかったのだ。対峙していたサルヴェナーズには、アナスの刃が瞬間移動してきたように見えたであろう。
「幸運は常に美女の味方なのよ」
アナスが得意気に言った。サーラールは微妙な表情を作る。
「なによ」
「そうだな……いや、五年後に期待しているよ」
失礼な発言に、アナスはむくれた。