第十六章 ディーヴァの脅威 -2-
上司の機嫌が悪いことは、長い経験でわかっていた。
この方は感情を外に出さないが、決して感情がないわけではない。今も黙々と自室で書類を処理しているが、字を書くときの音がいつもより若干強めだ。これは、機嫌が悪い時のしるしである。
キミヤーは、ごく普通の太陽神の女神官である。特別な力があるわけではなく、ただ高位の祭司たちの世話をするだけの存在だ。だが、この方の下で長く勤められる神官がいないため、いつの間にか彼女が専属でこの上司の世話をすることになっている。
上司が何を考えているかはわからない。なにせ、相手は神をその身に宿す御方である。
彼女は太陽神の目であり、耳であり、言葉の代弁者だ。
太陽神の御使いの一員であり、神の力とも呼ばれるスラオシャを降臨させている。こうして横から見ていると、人形のように無表情で、やはり人間とは思えない。
「キミヤー」
ちらちらと見ていたのがばれたのか、彼女の上司……ボルールが桜桃のような唇を開いた。
「お客様です。ご案内してください」
ボルールは書類から全く目を離していなかった。何処にどんな来客が来たかも全くわからない。だが、キミヤーはこんな上司の言動にはもう慣れっこであった。彼女は神殿の入り口まで行ってみる。すると、そこには真紅に燃える小さく綺麗な鳥と、一人の少女が佇んでいた。
「ボルールさまをお訪ねですか」
キミヤーが少女に声を掛けると、少女は何故か泡を食ったように両手をぶんぶん振り始めた。赤い鳥が少女を眺めると、不思議と肩をすくめるような動作をして嘴を開いた。
「ボルールさまと言うのがスラオシャさまのことならば、その通りよ」
鳥が喋ったことにキミヤーはぎょっとしたが、ボルールの部下をしていればこのような怪異も珍しい話ではない。速くなる鼓動を何とか鎮めると、キミヤーは重々しく頷いた。
「はい。ボルールさまはこちらの部屋でお待ちです」
喋る鳥と落ち着きのない少女を上司が待っているのが不思議であったが、キミヤーは深くは考えないことにした。長くボルールに仕えるこつは、疑問を抱かぬことだ。何故とか考え始めると、精神がやられてしまう。
「お客様をお連れしました」
ボルールはもう仕事を片付けて待っていた。礼儀正しく立ち上がり、客を迎える姿勢を取っている。この御方がこんなに礼を尽くされるほどの客なのかと、キミヤーは目を丸くした。
「ようこそバクトラへ。久しぶりですね、ザリチュさん。それに、初めましてで宜しいでしょうか」
「初めまして、アナスです、ボルールさま」
赤い鳥が光に包まれたかと思うと、赤毛の少女がそこに現れていた。キミヤーは更に驚愕したが、何とか口を掌で押さえて声を出すのを防ぐ。
「久しぶりみたいな?」
ザリチュは明らかに落ち着かない様子で、視線をあちこちに移していた。ボルールは冷たい視線でザリチュを眺めたが、特に何も言わなかった。
「とりあえずお掛け下さい」
この部屋には、木製の椅子があった。絨毯の上に直接座ることに慣れているアナスは、ちょっと座りにくそうに椅子に腰掛ける。
「詳しい事情を教えてもらえるかしら。あたしは、カールティケーヤとクベーラを倒すのに協力しろと言われただけなんで」
ボルールはちらりとザリチュを見た。視線を感じたザリチュは何故か胸を張って威張る。ボルールは右手をこめかみに当て、自分を納得させるように小さく首を振った。
「ええ、ザリチュさんが頼りになるとは思っていませんでしたわ。いいでしょう。初めからお話します」
ボルールは、最近のアシンドラの軍事行動について話し始めた。南方のチャールキア王国の遠征から始まって、旧クザン諸侯の都市の征服。ペシャワールからカーブルへの進軍。ヘテル王国軍の奇襲と失敗などなど。
あと一歩のところまでカールティケーヤを追い詰めながら、太陽神の御使いの一柱であるクベーラことシャミンが裏切ったために、スラオシャの計画が崩れてしまった。スラオシャだけではカールティケーヤとクベーラに立ち向かえないため、太陽神に相談したところ、今回の光明神との臨時の同盟になったのだ。
「当面の敵はエルとカールティケーヤと言うことで、利害が一致したようですね。カールティケーヤは味方が少ない分、円卓会議の前に支配下の人間を増やそうとしていますが、こちらとしてはエルかカールティケーヤ、どちらかを排除しておきたいところなのです」
「神々の王は光明神と創造神が有力だって聞いたけれど、創造神の陣営を潰しちゃったら光明神が得するだけじゃないの? 何がしたいのか、いまいちよくわからないわ」
「さて、それに関してはわたくしの口から言うわけにはいきませんわ」
水と豊穣の女神が何かを企んでいるのは知っている。それに太陽神を利用していることも。だが、それが何なのか、それはアナスにはわからなかった。
「大体、貴方が何故光明神に力を貸しているのか、わたくしたちの方こそ知りたいくらいなのですよ。神々の王と円卓会議による統治を考案し、地上は神々の王に任せると決定された貴方が、何故今更光明神に味方されるのか」
「いや、あたしは別に神としての記憶や意識とかないんで、わからないわよ」
アナスの加護最善なる天則は、本来月神の力を超える権能だ。月神から光明神になるに当たって何柱かの神の力を取り込んだが、その中でも最も強い力だ。
ヴァルナはミタン王国では始源神、裁定神として扱われる。そして、拝火教団ではそれは光明神であるとしている。だが、実際ヴァルナは月神ではなく、天の中心だと言う。天の中心が月神に進んで協力したのか、敗れて力を奪われたのかはアナスにはわからない。
「とにかく、まずはカールティケーヤとクベーラをどうするかよね。あたしはよく知らないけれど、どんな力を使ってくるのかしら」
ヴァルナやアンシャルに関してはアナスにはわからないので、とりあえず話題を変える。ボルールは真面目な表情のまま頷くと、敵の権能について語り出した。
「カールティケーヤの最大の特徴は、素早さです。全ての神々の中でも最速の速度は、光の速さをも凌駕します。普通の攻撃は全て回避されるでしょう。そして、彼の持つ神器破壊の槍は、全ての物質を塵に変えてしまいます。最強の矛を持つ最速の神、それかカールティケーヤです」
「反則もいいところね。最速って、ハラフワティーよりも? 正直あたしは彼女の速度にも及ばないんだけれど」
「そうですね。ハラフワティーさまも神々の中では屈指の疾さ。ですが、カールティケーヤの方が僅かに速いでしょう。真正面から戦う限り、彼は最強の武神です。ただ、戦い方が綺麗すぎるので、搦め手には弱いでしょう。実際、前回はわたくしの不可視の羂索で捕縛することができました」
つまり、カールティケーヤと戦うならぱ、頭を使えと言うことだ。アナスはちらりとザリチュを見ると、小さくため息を吐いた。この件に関してザリチュが頼りになるとは全く思えなかったのだ。