第十六章 ディーヴァの脅威 -1-
円卓会議に向けての準備を進めていたはずであった。
ナーヒードを護り、神の門まで赴く人選や行程を決めなければならない。むろん、ナーヒードとファルザームが主に決めているが、アナスは親衛隊の隊長である。当然、親衛隊が神の門に付いていくのは当然のことだ。
その忙しい中、いきなりファルザームに呼び出された。嫌な予感を押し殺しながら神殿に向かったアナスは、そこでその予感が当たったことを知らされた。
「ザリチュとバクトラに向かってほしい」
ファルザームは結論から伝えてきた。回りくどく言われるよりはましだが、何がどうなっているのかはさっぱりわからない。また、マルドゥクの封印から抜け出した神の退治であろうか。
「今回は、バクトラのアフシュワルを助ける案件じゃ。東方拝火教団から要請が来ての。ミタン王国の侵攻を受けて、バクトラが危ういらしい」
「ミタン王国が動いているのは聞いていたけれど、何で聖王国がヘテルを助けるの?」
東方拝火教団には確かにズィーダを祀る神殿もあったが、基本的にはあそこは水と豊穣の女神の縄張りだ。敵対勢力と言える相手を助ける義理があるとも思えない。
「ミタン王国がヘテルを抜けば、次はスグディアナにやって来る。折角治まったスグディアナを戦乱に巻き込みたくはなかろう?」
要するに、ヘテルを盾として利用するから、その支援をしろと言う命令であった。戦略としては正しいのだろうが、アナスは何処か納得できない気持ちがある。
「それで、今回の相手は何て言う神なの」
それでも、話を進ませるためにアナスは聞いた。どうせ、理窟ではファルザームに敵わない。下手な反論は時間を無駄にするだけだ。
「暴風神の息子ニヌルタと、古シャームの魔神シャミンが確認されておる。ニヌルタは知っての通り、大神の一柱に名を連ねておる。ミタンではカールティケーヤ、韋駄天と呼ばれているようじゃな。シャミンはアーラーンでは馴染みのない神じゃが、バーブ・イラではセムの守護者などと呼ばれていた。ミタンでは毘沙門天、クベーラとも呼ばれておるな」
「いきなり大神が相手とか、聞いてないわよ!」
「何を言っておる。円卓会議では、周りはみな大神ばかりじゃぞ」
アナスは絨毯の上に突っ伏した。その通りではあるが、だからと言っていきなり戦うのとはまた別問題である。
「それに、今回はスラオシャの顕現が味方につく。バクトラに着いたら、太陽神の神殿のボルールと言う祭司を訪ねよ。そして、彼女に協力するのじゃ」
そう言えば、拝火教団の認める亜神でも、太陽神の配下に位置付けられている神は多い。フワル・クシャエータ、スラオシャ、ラシュヌ、アシなど軒並み太陽神の従属神である。それに比べると、光明神の陣営は自分だけやけに働かされている気がしてならない。
それでも、アナスはアーラーンを護るために働きたかった。彼女の父親は、アーラーンの守護者キアーである。父親を尊敬し、憧れを抱くアナスにとって、父親の行動をなぞることは大切なことである。
神殿を辞したアナスは、フーリ、ロスタム、シャガードを呼び集め、後事を託した。この手の実務はフーリが得意とするところではあるし、ロスタム、シャガードが睨みを利かせている以上、ナーヒードの身も安全だろう。
「アナスさん、またファルザームさまのお仕事なんですか?」
後事を託されたフーリはいつものことなので了承したが、若干呆れ気味であった。
「こうあちこち飛び回るなら、親衛隊の隊長は、もうロスタムに譲ってもいいような気がするわ」
アナスも肩をすくめる。実際、彼女は王都にいる時間より、外に出掛けている時間の方が長いくらいだ。
「しかしな、おれの小隊はともかく、元からの親衛隊の連中は、アナスしか隊長とは認めんぞ」
結成時からアナスにしごかれた隊員たちは、完全にアナスを崇拝している。たとえロスタムと言えど、隊長として認めることはないだろう。
「いや、わたしもですよ。兄さんのようなむさ苦しい隊長などごめんです」
シャガードが真面目な顔で言ったが、三人は軽くスルーした。ザールがいれば張り合ったであろうが、ロスタムは付き合わない。シャガードは若干寂しそうにしたが、正直アナスは相手にしている余裕はなかった。
「ちょっと、まだ愚図愚図しているみたいな?」
窓からいきなり入ってきて、声を掛けてきたのはむろんザリチュであった。ここ最近の何回かの仕事で、全てタルウィに出番を奪われていたザリチュは、今回はかなり強引にファルザームにねじ込んだらしい。
「バクトラまでは、真っ直ぐ飛べば五時間くらいで着くわ。まだ話す時間くらいはあるわよ」
「アナスはスラオシャを知らないし! あいつは時間に滅茶苦茶うるさいみたいな!」
光明神の従属神となったザリチュは、スラオシャと面識があるようであった。とは言え、お世辞にも仲が良いとは言い難い雰囲気である。
「あいつはタルウィに似ているけれど、タルウィの百倍融通が効かないみたいな! アナスなんてきっと初日で懲罰帳に名前が載るし!」
「あたしはタルウィとそんなに合わないわけじゃないしなー……懲罰帳?」
「そうだし! あいつは太陽神の耳とか言って、すぐに言い付けるみたいな! あたしなんて、もう二十回くらい載せられたし!」
何となく、それはザリチュが悪いのではないか、とアナスは思った。ザリチュは悪い娘ではないが、規律とは無縁の性格である。ザリチュには普通のことでも、スラオシャには許せないことが多々あってもおかしくない。
「まあ、でも早めに行くにこしたことはないわね。ニヌルタとの戦いなんて、よほど準備しないと立ち向かえる気がしないわ」
大神と直接対峙したことは一度。パールサプラでハラフワティーに見逃してもらったときである。あのときは、何をしても通じる気がしなかった。
その後、大神同士の戦いを見たことがある。そのときも、自分の力量が大神に及ばないと思い知らされただけだ。だが、神を何柱も倒し、力を付けたいまならどうなのか。少なくとも、ニヌルタはマルドゥクほどは強くないと思われる。
それでも、今日はもう出掛けるには遅い時間だ。アナスは、ザリチュに出発は明朝であることを伝えると、フーリたちも解散させた。どうせこの後激しい戦いが待っているなら、今日くらいはゆっくり過ごしたかった。
夕食はアナスの好きな羊肉とジャガイモとヒヨコ豆の土鍋料理を出してくれると言うので、それまでは寝台で体を休めることにする。
「それにしても、あたしマラカンドで大分ヘテルの兵士を斬っているんだけれど、行ったらいきなり襲われたりしないかしら」
アフシュワルの三男を人質に取っているので大丈夫だとは思うが、少し心配である。何せザリチュは力はあるが頭が弱い。即座に判断しなければならない状況に陥ったときは、全て自分で決めなければならないのだ。
せめてタルウィがいればな、とアナスは思った。強敵を前にしての冷静な判断が期待できるのに、と。
だが、いない者は仕方がない。タルウィがあまり国を空けると、アーラーンは干魃に見舞われてしまう。わかってはいるのだが、それでも、とアナスは密かに呟いた。