第十五章 破壊神の息子 -10-
アスパヴァルマのアヨーディヤー騎馬隊の損害は、死者二十名、負傷者三百名を数えた。身動きのできない状況で矢の雨を食らったのだ。この程度で済んでよかったと言えるだろう。
とは言え、アシンドラがこの騎馬隊を作って以来、最大の損耗ではあった。
すでに崩落した岩は取り除かれ、全軍の行軍は再開されている。報告によると、シャンカラは崩落の後その場に待機せず、更に進んで街道を空けたらしい。その判断は間違っていない。もし、カールティケーヤが岩壁を破壊できたとしても、脱出する街道を塞がれていては、立ち往生する他なかったからだ。
だから、カールティケーヤが手早く岩を排除できなかったのが最大の問題である。もし、アスパヴァルマに毘沙門天が降りて来なかったら、羂索に捕縛されたカールティケーヤは無様な敗北を喫していただろう。
本来なら、クベーラはこんな局面で使うべき手札ではなかった。もっと重大な局面で、太陽神を裏切らせるつもりだったのだ。だが、背に腹は代えられぬ。カールティケーヤが助かった以上、これでよかったのだろう。
アシンドラの二大戦力の片割れであるヴィナーヤカの戦象軍団を連れてきていれば、違っていたかもしれない。ヴィナーヤカは歓喜天をその身に宿すアシンドラの腹心である。だが、いま彼には、ミンナガラ、クエッタなどの兵を連れてカンダハール攻略に着手してもらっていた。
カンダハールを含むアラコシア地方は、先日までアーラーン王国の版図であった。ケーシャヴァのアーラーン遠征のときも行軍の進路はバルーチェスターンの南方路だったため、アラコシア地方は戦禍には見舞われなかった。その後、ハラフワティー復活のときの虚空の記録改変で、カンダハールはアーラーン王国の版図ではなく自由都市となり、アーラーンにもミタンにも従わない勢力となっている。
アシンドラは、その処理を信頼する片腕に任せたのだ。
アヨーディヤーからの道のりはかなり遠く、二か月が経過したいまでもまだクエッタに兵が集結している最中であろう。ヴィナーヤカが北上してくるには、まだかなりの時間がかかるはずだ。
「陛下、カーブルが見えてきました」
アシンドラが思考の海に沈んでいる間も進軍は続けられ、カーブルに到着した。
ヘテルの軍勢はすでにカーブルから撤退しており、アシンドラは抵抗もなく入城する。斥候はベグラムの無人も報告してくるが、しかしスラオシャの加護を持つヘテルの兵がいれば斥候など当てにならぬのだ。
恐らくは、バクトラでの決戦に方針を転換したのだろう。そのときまでに、スラオシャとフワル・クシャエータに対抗する策を立てておかなければならない。大神ともあろう者が、太陽神の部下ごときに苦杯を嘗めるなど、あってはならぬことなのだ。
「梵天がもう少し太陽神と弁財天を引き付けてくれればな」
だが、実際のところ、梵天、いやエルのフルム帝国も苦しいはずだ。ウラルトゥは先日の獣の民の蹂躙から立ち直っていないし、シャームにはパルミラ王国が圧迫を強めてくる。背後にいるのがハラフワティーであることは明白であり、エルは激怒しているが情勢が悪い。このままでは、円卓会議もどうなるか検討もつかない。
「アフシュワルが、カーブルとべグラムの食糧を根こそぎ徴発していったと報告が入りました」
アスパヴァルマの報告は、状況を一層悪化させてくれる。現状すぐに兵糧に困るわけではないが、カーブルとべグラムの民衆を見捨てるわけにもいかない。ペシャワールやタキシラから集めるにしても、金と時間を大分浪費させられてしまう。嫌らしい戦術を使う男だと、アシンドラは憤慨した。彼の正義では、このような姑息な手段は有り得ない。
「シャンカラに対処させろ。この件に関する権限を与え、他の諸侯や太守に協力させるのだ」
ペシャワールが最も近い都市である以上、シャンカラに任せるのは理に叶っていた。アシンドラも余計なことに気を使わずに済む。
その後も井戸に毒が入れられたり、天幕に火が放たれたり、嫌がらせのような工作が頻発した。明らかに陽炎の加護を持つ工作員の仕業である。アシンドラが対処してもよかったが、工作員の摘発の方はアスパヴァルマに任せることにした。アシンドラは別のことに神経を集中させたかったのだ。
ニヌルタは暴風神の息子であるが、彼には兄弟が多い。彼に対抗する月神や戦争神がそうだ。他にも、アガドと言う弟がいる。これはアッシュールの風の権能を強く受け継いだ神であり、パールサ人にはワーユ、ミタン人にはヴァーユと呼ばれていた。
アガドは神々の王マルドゥクと仲が良く、長く付き合っていたが、暴風神と雷霆神が対立すると、暴風神の陣営に加わった。暴風神が敗れるとミタンの地に逃れ、黒き神マヨンとともに管理神の一員となっていた。
だが、マヨンがいなくなり、ニヌルタが正式にミタン王国の支配権を握ると、その傘下に加わっていたのである。アシンドラが頭を悩ませていたのは、誰に降臨させるか、ということであった。
適性を考えると、キアナが一番であろうか。彼はアヨーディヤー出身の者ではないが、これまでの態度を見ていると、信を置いてもいいように思える。
韋駄天、毘沙門天、風天の三神の戦力で攻めれば、例え摩利支天に日天の援護が付いても負けはしないだろう。
念には念を入れて味方を増やしたいところではあるが、いまカールティケーヤに味方する神は、歓喜天を入れてこれで全部であった。
太陽神や弁財天は、本来彼より下の世代である。暴風神の息子として、正統な神々の王の資格があるのは自分だけだ。今回は梵天を支援しているが、次回は譲るつもりはない。
しかし、この調子では、円卓会議の前に聖王国と戦うのは難しいかもしれない。バクトラを陥として時間切れになりそうだ。アヨーディヤーだけを抱える小領主として出席するのと、広大な領土を有するミタン王国の国王として出席するのでは、まるで発言力が違う。カールティケーヤが征服を急いだのはそのためである。
それだけに、弁財天ことイシュタルの東の牙城であるバクトラは、激しい抵抗が予想された。東方拝火教団は、シュメルやアガデから連なる原始宗教の流れを継いでおり、その解釈はミタンでも大差はない。アーラーンの拝火教団、すなわち光明神が異常なのである。本来ならアーラーンと戦うために手を組めた可能性もあるが、ニヌルタの同盟者である梵天ことエルが、イシュタルと対立している以上避けられない戦いだ。
何れにせよ、暫くはカーブルに留まる必要がある。風天をキアナに降臨させ、べグラムに派遣する。シャンカラには補給の指揮を執らせる。アスパヴァルマには、工作員の処理をさせる。これらの方針を決め、ようやくアシンドラは人心地ついた。
蜂蜜酒を傾けると、アシンドラは館の二階に広く採られた窓から外の景色を眺めた。カーブルからは、四方はどちらを向いても山ばかりである。カーブル自体もかなりの高地であるため、アヨーディヤーと比べればかなり涼しく、過ごしやすい。
「負けるものか。余は正統なる神々の王の継承者なのだ。大地を支配するのは誰でもない、このカールティケーヤだ」
独白は風に流れ、夕暮れに消えていった。