第十五章 破壊神の息子 -9-
弦が鳴り響き、見えない矢が放たれる。カールティケーヤは瞬時に身をかわした。不可視の矢は弧を描いて追尾してきたが、破壊の槍の一閃で塵に変える。不敵に笑うカールティケーヤに、スラオシャは面白くもなさそうに言った。
「拡散させた自分の神気を感覚器として使うとは、なかなか器用ですね」
「余はこれでも大神なのでな。その方ごときに遅れは取っていられぬよ」
カールティケーヤはスラオシャとの戦いにはやや余裕を見せていたが、矢を浴びせられる自軍の兵士を見て顔をしかめた。スラオシャは時間を稼いでヘテル王国軍を支援するつもりだ。カールティケーヤとしては、長くスラオシャに関わっている時間はない。
要は、スラオシャを無視して崩落した岩を破壊してしまえばいいのだ。彼女の攻撃はカールティケーヤにとってはさほど脅威ではない。見えない攻撃でも、カールティケーヤには感知できる。
カールティケーヤは、破壊の槍を一閃し、振動波を岩の壁に向けて放った。耳に痛い高音を発しながら破壊の振動波が崩落した岩に叩き込まれる……と見えた瞬間、振動波が上に捩れて上空へと逸れていく。
「な、何っ」
流石のカールティケーヤも驚愕した。まさか、スラオシャにこんな権能があるとは全く想像していなかったのである。
「陽炎とは、要するに光を曲げること。わたくしが光を操れるのは勿論ですが、実は光以外のものも曲げることがてきるのですよ」
「面倒な力を持っているな」
厄介そうにカールティケーヤは言った。実際、スラオシャの権能は派手さはないが嫌らしいものが多い。ナラシンハの方がずっと単純で楽な相手であった。
「ならば、直接破壊するまでよ」
破壊の槍を握り締め、今にも動き出そうとした瞬間、カールティケーヤの体が硬直した。思わず目を見開くカールティケーヤに、スラオシャは初めて得意気な表情を見せる。
スラオシャの手には、いつの間にか五色の羂索が握られていた。羂索の一方の端はスラオシャの右手の金剛杵に結び付いており、もう一方の端はカールティケーヤの体に巻き付き、縛り上げている。
「ば……かな。余の神気に触れれば感知できぬはずが……」
カールティケーヤが唖然とすると、スラオシャの形のいい唇の端がぴくぴくと動いた。恐らく、それがスラオシャの笑顔なのだろう。
「わたくしの神性は隠すことが本領。わたくしの神気で包み込めば、感知することもできないでしょう。この五色の羂索は、神性を封じる効果があります。ニヌルタ、あなたの負けですわ」
スラオシャの言う通りであった。膨大な神気を保有する大神のカールティケーヤが、神性を封じられ身動きすることすらできない。世界で最も素早い神も、こうなっては形無しである。
「ニヌルタさえ封じれば、もはやわたくしたちの勝利は疑いないでしょう。後はアフシュワルに任せても……」
スラオシャは、勝敗は決まったとカールティケーヤを捕縛した五色の羂索を引き寄せようとした。だが、その手応えが途中でいきなり軽くなる。神を封じる神器である五色の羂索は、普通の攻撃や力任せで切れるものではない。ましてや、神性を封じられたカールティケーヤにはどうしようもないはずだ。
だが、現実に鋭利な刃物に斬られたかのように半分になって宙を舞う羂索に、スラオシャは一瞬動くことが出来なかった。
そして、その一瞬で、その男は目的を達成していた。
「ご無事でしょうか、陛下」
中軍の真ん中で指揮を執っていたはずの男が剣を二閃させると、はらりとカールティケーヤの体に残った戒めも大地に落ちる。
「今度ばかりは救われたな、毘沙門天」
武人として構えを崩さぬまま、アスパヴァルマは一礼した。それを見たスラオシャは、重大な情報が抜けていたことを悟った。
「まさか、シャミンなの。太陽神さまの御使いの一員たる貴方が、こんなところで主を裏切るおつもりかしら」
アスパヴァルマに降臨した神は、スラオシャと同じ太陽神に仕えているはずの神であった。バアル・シャミンは、元々古代シャームのセム系民族に信仰されたセムの守護者である。アールヤーン系民族のミタン人にはクベーラと呼ばれていた。巨人のような夜叉を率いる王として君臨したが、マルドゥクに敗れその従属神となった経歴を持っている。だが、マルドゥクがネボに殺されたときに、彼は太陽神が傘下の神としたはずであった。何故なら、スラオシャの妹アシ、ミタンでは吉祥天を、クベーラは娶る約束をしていたのだ。
「それがしは雷霆神がミタンの統治権を手放したときに、すでに新たなる天軍の指揮官たるカールティケーヤさまの配下に入っていたのだ」
だが、それは策略であった。マルドゥクが死ぬ前にすでにクベーラはマルドゥクの傘下ではなくなっていた。そして、まんまと太陽神を欺き、その傘下に加わった振りをしていたのである。カールティケーヤがミフルやハラフワティーの腹を探るために打った手であったが、意外なところで彼の命を救うことになった。
「しかし、太陽神さまもそなたを御使いの一員としてお認めになられたというのに、そなたほどの男がそれでよいのですか。アシのことはどうするつもりなのです」
「それがしはカールティケーヤさまの四天王が筆頭。ラクシュミーには、もっとよい男がいるであろう」
彼の武勇を惜しむスラオシャが言い募ったが、クベーラは背筋を伸ばしてミフルへの従属を拒んだ。そうなるとまずいことになると、スラオシャも氷のような美貌に若干焦慮の色の覗かせた。
さすがのスラオシャも、カールティケーヤとクベーラの二柱を相手には戦えない。そうなると、ここまで上手く運んだこの奇襲が、全て台無しになってしまう。
(計画は失敗だ。カーブルとベグラムは放棄して、一度バクトラまで撤退せよ)
悩むスラオシャの脳裏に、ミフルからの指示が飛んできた。ミフルはスラオシャの目や耳などの感覚器と同調できる。スラオシャが見たり聞いたりしたことは、全てミフルに筒抜けなのだ。ゆえに。このクベーラの裏切りは、すでにミフルの知るところとなっている。主の静かな怒りを察知し、思わずスラオシャは身を震わせた。
「かしこまりました」
此処まで追い詰めたのに、と悔しい気持ちはあった。摩利支天とは、勝利を導く神であったはずなのだ。それが敗れたとあっては、今後の信仰にも関わる一大事だ。
だが、太陽神の指示は絶対である。スラオシャは計画の失敗をアフシュワルに伝え、撤退させざるを得ない。彼女の陽炎の加護があれば、撤退はさほど難しくないはずだ。
スラオシャの退却を、カールティケーヤもクベーラも追わなかった。現状、彼女に攻撃を当てる手段を思いつかなかったのである。範囲攻撃を仕掛ければ当たるだろうが、それでは周囲の人間たちも全て吹き飛ばしてしまう。それは、カールティケーヤの本意ではなかった。
「太陽神は増援を寄越すかな」
カールティケーヤは、首を傾げながらクベーラに問うた。クベーラは少し考え、小さく頷いた。
「太陽神は弁財天と組んで梵天と戦うつもりのようですので、こちらまで手を回している余裕はないとは思いますが、しかし彼奴は誇り高い男です。摩利支天の敗北をそのままにしておくはずがありません。恐らく、日天が派遣されてくるでしょう」
クベーラの返答に、カールティーヤは苦虫を噛み潰したような表情を作った。スーリヤはフワル・クシャエータ、神の盾なるミーカールのことである。太陽神と同一なるものと言われるほど最も近しく、強大な権能を持っている。確かに、太陽神が身動きできないなら、分身となる者を派遣してきてもおかしくはない。先刻まで太陽神の陣営に潜り込んでいたクベーラの言うことである。疑う余地はないだろう。
太陽神の御使いは、本来大神になってもおかしくない経歴と実力の持ち主が名を連ねている。決して、油断ができる相手ではなかった。
カールティケーヤは気を引き締めて、クベーラに損害と状況の確認の指示を出したのである。