第十五章 破壊神の息子 -6-
東方拝火教団から、ペシャワール侯爵の敗死の報告が届いた。アフシュワルの伝令網より、かなり早く情報を入手している。鬱陶しい存在であるが、力を貸してくれるなら頼りになる連中だ。特に、いまは戦力の再編に忙しい刻である。正直東方拝火教団の協力は有り難い。
三人の息子のうち、次男のトラマーナは戦死し、三男のミヒラクラは聖王国の捕虜となっている。バクトラの騎馬隊も三千ほどに減っており、アフシュワルは千騎を旗本に、千騎を長男のシェンギラに預けた。残りの千騎は、かつてミヒラクラが率いていた重装槍騎兵に新兵を補充した部隊である。これを一族の一人スフェイラに任せる。スフェイラは、ミヒラクラには及ばぬものの、アス人の一族では勇猛を謳われる将であった。
フヴィシカ亡き後のバダフシャンは、娘婿のミリンダが侯爵の跡を継いでいる。東方拝火教団に帰依しているミリンダは、アフシュワルに離反することなく、未だ傘下に留まっている。
クジュラを喪ったティルミドは、弟のアサンガが後継となった。彼もまた東方拝火教団に帰依しており、その支持を得ているアフシュワルには逆らわない。
カーブルとベグラムは、支配していた月の民が去ってしまい、戦力的な空白状態になっていた。
アフシュワルは、一族のラザをカーブルに、ベナズィールをベグラムに遣わし、トハラ人やヘレーン人を集めて軍を組織させようとしていたが、進捗状況は芳しくない。
ゆえに、いまのアフシュワルは、防衛を考えずに全て動員したとしても、五千数百騎が限界であった。北のスグディアナへの備えも考えたら、その半分動員できればいいところであろう。
東方拝火教団からの報告を受けたアフシュワルは、シェンギラとスフェイラを呼び寄せた。以前のアフシュワルなら、しなかったことである。決断は全て一人で下していたし、それで間違ったこともなかった。だが、そろそろアフシュワルはシェンギラを後継者として鍛え上げる時期に差し掛かってきたようだ、と感じたのである。いまのシェンギラでは、まだ王となるには甘い。あれでは、北と東に敵を抱えるヘテルを長らえることはできまい。
「アヨーディヤーの騎馬隊が北上してきているそうじゃないか」
流石にシェンギラは、情報を掴んでいた。アフシュワルも先刻知ったことを、よく把握していると言える。スフェイラは寝耳に水と言った感じで驚いており、将としての経験の浅さを露呈している。
「マトゥラー侯とペシャワール侯が討たれ、タキシラ侯は降伏したらしい。ペシャワールに騎兵五千、タキシラに騎兵六千が集結していると言う。これは、すぐにもこちらに攻めてこれる態勢だ」
「あのアシュヴァーシャが討たれたのですか」
スフェイラの表情が驚愕に歪んだ。ペシャワール侯爵アシュヴァーシャは、ヘテルにとって、東方の最大の障壁であった。クザン諸侯の中核を占め、月の民の騎馬隊を動員できるその実力は、アフシュワルにも匹敵するほどであった。それが易々と討たれたと言う。ヘテルにとっても、軽々しく扱える話ではない。
問題は、バクトラからカーブルまでは九十パラサング(約五百キロメートル)はあることだ。ペシャワールからカーブルは、その半分以下である。いまから兵を集めて急行しても、カーブルとベグラムの救援は間に合いそうにない。その二都市には、防衛の兵がほとんどいないのだ。
「バダフシャンとティルミドに招集を掛け、バクトラの近郊で敵を迎撃するしかないのでは」
シェンギラの意見は消極的ではあるが、王道である。実際、アフシュワルもそうするしかないと思っている。残念ながらカーブルとベグラムを見捨て、バクトラでの決戦を挑むしかない。カドフィセスとヴィマタクトがいれば、もう少し戦いようもあった。だが、優秀な将帥の多くを前回のマラカンド遠征で失ったいまのヘテルでは、迂闊に前線に出向くこともできない。
「頭からカーブルとベグラムを見捨てる考えには賛成出来かねるのう」
そこに入ってきたのは、ハラフワティーの大祭司ハヴァフシュトラである。ミフルの女祭司を連れ、傍若無人に入ってくる。アフシュワルは眉をひそめたが、咎めはしなかった。東方拝火教団を実質仕切っているのはこの老人だ。
「アヨーディヤー軍を率いるのは、新たなる大神を僭称する昴星じゃ。教団としては、これを大神として認めるのは異端と言うことで一致しておる。さような者に、みすみすカーブルとベグラムを渡すのは感心せん」
「そうは言うがな、大祭司よ」
アフシュワルの口調は苦い。
「実際問題として、今からでは間に合わない公算が高い。バクトラの三千だけで出ても、カーブルまでは六日は掛かる。ペシャワールからなら、三日で到達するだろう。いまのカーブルには新募の兵が二百ほどしかいない。一日も持たないぞ」
「アシンドラは未だタキシラにおる。今ならまだ間に合うのじゃ。バダフシャンとティルミドの兵を集めていたら間に合わぬ。すぐに発つことが肝要じゃ」
確かにそれなら間に合うかもしれぬ。だが、三千の兵でミタン王国軍に勝てるのか。少なくとも、アシンドラはクザン諸侯の騎馬隊を短期間で撃破して北上してきている。いまのヘテル軍では不可能なことだ。まともにぶつかれば、負ける公算が高い。アフシュワルとしては、万全の態勢で策を練ってから戦いたかった。
「心配するな。ヘテルは勝利するじゃろう。そのために、この御方に来て戴いたのじゃ」
ハヴァフシュトラは、伴ってきた太陽神の女祭司を指し示した。美しい女であるが、アフシュワルは見たことがない。やけにハヴァフシュトラが丁寧な口調なのが気になるが、どう言うことなのか。
「太陽神の従属神である大天使スラオシャを降ろされたボルール様じゃ。太陽神の耳目であり、遣いであり、勝利を導く神でもある」
スラオシャは元々マート・ハルドゥの神であった。アラム語で神の力と呼ばれた力ある神であったが、太陽神の信仰に飲み込まれ、その従属神に組み込まれる。アーラーンではスラオシャと呼ばれているが、ミタンでは陽炎を司るマリーチーである。裁きの神であるが、軍神としての側面も持っていた。
「ボルールです、宜しくお願いします」
にこりともせず、太陽神の女祭司は頭を下げた。固く結ばれた唇は、意志の強さとともに人を寄せ付けない冷たさを感じる。
「アルシャク陛下はかつてアフシュワル殿と同盟を結ばれていたとか。今回は、その誼で助けるように仰せつかりました。わたくしがヘテルの軍団に加護を与えましょう」
アフシュワルは胡散臭げにボルールを見たが、亜神の顕現に迂闊な態度は取れない。神の加護を受ける代わりに出陣するのは業腹であったが、この状況では断れなかった。
とりあえず、バクトラ軍団三千で、ベグラムを目指す。ベグラムまでも五日は掛かる道程であるが、まずはそこまで行かないと話にならない。バダフシャンとティルミドにも出陣要請の使者を走らせるが、先行するバクトラ騎兵に追い付くのはいつになるか不明であった。