第十五章 破壊神の息子 -3-
ナラシンハは、百獣の王と呼ばれる力ある神である。黒き神マヨンはその力を持て余し、神々の王マルドゥクに依頼して討伐してもらった過去がある。
マルドゥクが討たれるとナラシンハも解放され、再びミタンの地に戻ってきていた。彼が現身として選んだのは、ペシャワールに勢威を奮うクザン諸侯の一人、アシュヴァーシャである。
タキシラ、サガラ、マトゥラーのクザン諸侯と組んで西のヘテル、南のミタン王国に対抗していたアシュヴァーシャであるが、ナラシンハが降りたことによって、その野望を拡大させていた。
アシュヴァーシャはクザン王家の血筋を引いており、バクトラのクザン王家を打倒したヘテルのアフシュワルとは相容れぬ男である。現在アフシュワルは大いに勢力を減衰させている。バクトラ、ティルミド、バダフシャン、ベグラム、カーブルと支配する都市を抱えており、版図こそ変化はないものの、月の民諸侯に離反され保有する戦力は大幅に減っていた。
アシュヴァーシャが反ヘテルを掲げてバクトラに進軍すれば、サガラはともかく、タキシラとマトゥラーの諸侯は必ず兵を出す。勝ち目は十分にあり、ペシャワールには月の民の精鋭騎馬隊が集結していた。
今にも出陣しようとしたときに、その報せは入ってきた。報せをもたらしたのは、鳩である。馬の伝令ではかなわぬ速度で飛来した鳩の伝令は、アシュヴァーシャにアシンドラの侵攻とマトゥラー侯の戦死を告げた。
アシュヴァーシャは赫怒した。ナラシンハの知識を持つアシュヴァーシャは、アシンドラがシャルヴァの息子カールティケーヤであることを知っていた。相手が大神であるなら、普通は相手が悪いと後込みするところである。だが、黒き神マヨンをも悩ませたナラシンハは、マルドゥク以外の神に遅れを取るつもりはなかった。
アシュヴァーシャは信書を認めると、別の鳩に結び付けてタキシラに向けて飛ばした。彼は動物と意志の疎通ができるが、タキシラ侯は普通の人間である。鳩とは喋れない。
「行き先を東に変えるぞ! ミタンのアシンドラを蹴散らす!」
ペシャワールに集結した月の民の騎馬隊二千が、右手を上げて呼応した。馬蹄が大地に轟き、人馬が東に向けて移動を開始する。
アシュヴァーシャは何羽も鷹を飛ばし、アシンドラの兵の動きを把握に努めた。アシンドラの進撃は驚くべき速さであり、後続の部隊が振りきられて付いて来れていない。軍事的には愚かな所業であるが、カールティケーヤを知るナラシンハは油断しなかった。あの雷霆神シャクラ、すなわち神々の王であるマルドゥクが、単純な戦闘では敵わないかもしれないと警戒した大神がカールティケーヤである。マルドゥクの強さをよく知るナラシンハだからこそ、騎馬二千弱で突出してくるミタン王国軍を侮ることはなかった。
アシュヴァーシャがペシャワールを発ったのは、アシンドラがマトゥラーを出立した日と一日違いである。間にサガラがある以上、アシュヴァーシャが先にタキシラに着くのは間違いない。だが、アシュヴァーシャは油断せずに急いだ。アシンドラの位置は刻々と報告が入るが、その進撃速度はアシュヴァーシャの予想を遥かに超えるものであったからだ。
サガラの太守には期待はしていない。彼は軍人の気質ではないのだ。サガラがろくに戦うことなく降伏したことにも、アシュヴァーシャは大して驚きはしなかった。アシンドラの騎馬隊にさほど遅れず進撃してくる騎馬部隊があることに、警戒心を強めただけである。
「韋駄天と翼ある者の騎馬隊か」
アシンドラに付いてきている騎馬隊は、ミタン王国の騎馬隊を預かっていたアグハラーナの弟のようだ。アシュヴァーシャはアグハラーナの騎馬隊を見たことがあるが、その騎兵運用は見事なものであった。あの騎馬隊がアーラーンで壊滅したとは、俄には信じられない。
ペシャワールからタキシラまでは約十二ヨージャナ(約百七十キロメートル)である。マトゥラーからタキシラまでは、約四十ヨージャナ(約六百キロメートル)。アシュヴァーシャは二日でタキシラに到着したが、アシンドラは五日は掛かるだろう。それでも、並みの騎馬隊なら八日は掛かる。流石に一日の差があっても、アシュヴァーシャはアシンドラに先行できた。これは、アシンドラの計画にはない事態のはずだ。
タキシラ侯マータラは、老練な武人である。アシュヴァーシャの報せを受けて、すぐに麾下の月の民の騎兵に召集を掛けた。ペシャワール騎兵がタキシラ城外に到達する頃には、すでに城外は集まってきた月の民の戦士たちでごった返していた。
マータラは目敏くアシュヴァーシャの到着を見てとると、周囲の兵士たちを遠ざけ、場所を空けた。髪には白いものが混じっているが、肉体は鍛え上げられ衰えは見えない。アシュヴァーシャとは、話が合う男である。
「鳩の連絡、感謝するぞ、ペシャワール侯」
そして、マトゥラー侯爵ヴァーシシカの死を悼むように目を伏せた。クザン王家がアフシュワルに討たれて以来、東の月の民諸侯は一貫して反ヘテルで団結してきた。殊にアシュヴァーシャ、マータラ、ヴァーシシカの三人の仲はよかったのだ。互いに認め合った武人であり、カドフィセスやヴィマタクトのような変節はしないと信じられる友人であった。
「ヴァーシシカの仇敵は討たねばな」
ナラシンハは誇り高い神である。アガデでは百獣の王と呼ばれていたように、己の強さに自信を持ち、その強さで仲間を守ろうとする。アシュヴァーシャもそう言う気質の持ち主であった。
ペシャワール騎兵が二千、タキシラ騎兵が二千と二人の保有する戦力は騎兵四千を数える。アシンドラが二千騎のみで先行してくるようなら、アシュヴァーシャはこれを殲滅する自信があった。サカ人の騎馬隊が幾ら強力であっても、月の民とて劣るものではないのだ。
黄金の獅子の旗が翻った。
クザン王国の月の民は三日月の旗を捨て、新しい旗を各自で編み出している。獅子の旗はアシュヴァーシャの象徴だ。彼はその旗に相応しい苛烈な攻撃を持ち味としており、堅実に戦線を支えるマータラとは相性がよかった。
「ヴァーシシカの息子がマトゥラーの兵を率いてアシンドラを追撃していると言う話だが」
「追撃と言えるかな……。ヴァーシシカの息子はチャルカと言ったか? 父親に似て勇猛だったはずだが、アシンドラに降伏したようだ」
アシュヴァーシャの言葉にはやや棘があった。高潔なヴァーシシカの息子がクザン諸侯を裏切るような行動を取ることへの怒りと失望が含まれている。
だが、マータラはマトゥラー侯爵家とは家族ぐるみの付き合いがあり、チャルカのこともよく知っていた。父親を殺された相手に素直に従う男ではないはずだ。マータラが疑念を示すと、アシュヴァーシャは腹立たしそうに首を振った。
「大神どもがやりそうなことだ。虚空の記録を書き換え、人の意志まで変えてしまう。無制限にできることではないが、何か大きな出来事が起きるときに紛れてこれを行う大神がよくいるのだ」