第十五章 破壊神の息子 ―1―
バームダードのエラム王国が崩壊し、クルシュのパールサ王国が新たに建国されてから半年。
アーラーン聖王国はパールサ王国を支配下に入れ、ミーディール領を除く旧領をほぼ回復していた。
蛇人に痛めつけられたカルマニアとスィースターンの復興もようやく軌道に乗りつつある。
ナーヒードの動かせる軍団は、かなり膨れ上がっていた。
直属軍は大将軍バナフシェフの指揮下に騎兵七千、歩兵二万五千。ホラーサーンを中心に駐留し、急を聞き付ければ即座に移動できる態勢にある。
他にもパールサ王クルシュ、レイ王ファリドゥーン、ハーラズム王トミュリス、ヒュルカニア総督シャープール、ギーラーン総督ザール、カルマニア総督パヤム、スィースターン総督イェクター、スグディアナ総督ミーラーン、メルヴ太守ヴィマタクト、ハライヴァ太守カドフィセスなど諸侯軍を数えていけば膨大な数の軍を動員することが可能だ。
十万を超える軍団を動かし得る聖王国と、旧クザン王国の諸都市に挟まれたヘテル王アフシュワルもかつての勢いはない。東方国境には平和が訪れており、ナーヒードにはようやく西に目を向ける余裕が生まれていた。
西方では、シャームでフルム帝国とミーディール王国の緊張が高まっていた、原因はパルミラ王国の帰属にあり、おのれの支配下にあったパルミラ王国を奪われたとして、フルム帝国はシャームに軍団を集結させつつあった。
一時期ウラルトゥを席巻していた獣の民は、ウラルトゥからパンノニアに戻っている。フルム帝国にとっては、こちらも油断のならぬ敵で頭が痛そうだ。
唯一問題があるとすると、スィースターンの東の国境であった。
ケーシャヴァ率いるアーラーン侵攻軍が壊滅したことは、ミタン王国も把握しているはずである。その後のミタン王国の動向は、エジュダハーの蛇人がカルマニア近郊を制圧していたことで、ナーヒードの耳までは入らなかった。だが、エジュダハーを斃し、カルマニアとスィースターンの復興も一段落してくると、どうしてもミタン王国の状況が流れ込んでくる。そして、それは決して好ましいものではない。
ミタンの王都パータリプトラは、黒き神マヨンの保護の下に繁栄していた。だが、マヨンの顕現ケーシャヴァは、パールサプラでハラフワティーの顕現ニルーファルに討たれた。
パータリプトラの王家は神の保護を失い、ミタン王国は麻の如く乱れるかと思えた。
その混乱を鎮めたのが、アヨーディヤーを領するミタン六将最後の生き残りにして最強の男、アシンドラてある。大神ニヌルタをその身に宿したアシンドラは、パータリプトラに兵を進めて王家を恫喝し、王座を奪ったのである。
パータリプトラ王朝に替わり、アヨーディヤー王朝を建てたアシンドラは、ミタンの諸侯を神の力でねじ伏せ、王国全土を支配した。彼個人はアーラーン聖王国に特に思い入れはなかったが、ニヌルタは月神シンとは反対の立場を取る。
旧クザン王国都市群か、スィースターンとの国境を荒らす可能性もあり、兵の動きは常に警戒するようにしていた。
アシンドラか採用したのは、多くの予想を裏切っての南下策であった。旧クザン王国都市群もアーラーン聖王国も動く余力がないと見切ったアシンドラは、ダクシナ高原に勢力を張っていたチャールキア王国に侵攻した。
チャールキア王国は、元々ヒンドゥシュ河流域に文明を築いていたヒンドゥ人たちが築いた王国である。彼らが故郷のヒンドゥシュ河流域を逐われたのは、北からアールヤーン民族が侵入したせいだ。このヒンドゥシュに侵入したアールヤーンの民は、シン、イシュタル、シャマシュの三神を信仰する人々とは別の集団である。ヒンドゥシュは当初デイオスとアッシュールとマルドゥクの共同統治下にあり、その意を含んだ下位神が管理をしていた。黒き神マヨンもそのうちの一柱である。ニヌルタはマルドゥクに認められてミタン王国の管理を任されていたが、マヨンら前任の管理神がいる間は口を挟まなかった。マヨンがネボに踊らされ、己の現身を失う暴挙に出たときも、敢えて何も言わなかった。エルと通じていたニヌルタは、エルとネボとイシュタルによるマルドゥク潰しの陰謀を把握していたのである。
都合よくマルドゥクの息の掛かった管理神であるマヨンを排除できたので、ニヌルタは思い通りに行動できるようになった。
ミタンの宗教は天を祀るディーヴァ教団であるが、天空神ことディヤウス・ピトリ、暴風神ことシャルヴァ、雷霆神ことシャクラ、それに裁定神たるヴァルナなどが主な信仰の対象である。アッシュールの息子であるニヌルタは、シャルヴァの子カールティケーヤとして、シャクラから天軍の指揮権を譲り受けたと称し、今までの神を超える存在であることを示そうとしていた。そして、暴風神であったシャルヴァを、破壊を司る大神であると格上げし、その息子である自分の権威を高めるのに利用したのである。
さて、そのニヌルタの化身てあるアシンドラ率いるアヨーディヤー軍団の中核を成すのは、戦象百頭を有する戦象軍団と、サカ人による騎兵部隊である。
かつてバクトリアを一時期支配していたサカ人が、月の民の侵入でスィースターン方面に移住し、アーラーンとミタン国境をサカ人の王国で塞いでいた過去がある。パルタヴァ人がその地方に東進してきたときに追い払われたが、その子孫はミタンの各地に生き残っていた。アシンドラは彼らをまとめて直属の騎馬隊を作り出し、己の牙としたのである。
チャールキア王国に向かったのは、アシンドラとその騎馬隊二千だけであった。
王都バーダーミにてアシンドラの侵攻を知ったチャールキア王プラケシンは、ヒンドゥ人の部族を招集して兵を組織しようとした。
だが、アシンドラの進撃は、プラケシンが兵を招集するより疾かった。プラケシンが各部族に使者を飛ばした夜には、もうアシンドラはバーダーミの城下に到達していた。
バーダーミの城門はさほど強固なものではないが、それでも石造りである。だが、アシンドラが槍をひと振りすると、城門は粉々に砕け散った。
破壊された城門から騎馬隊が雪崩込み、プラケシンは捕縛されてアシンドラの前に引き摺り出された。
プラケシンは従属を条件に助命を請い、アシンドラはそれを了承した。彼は集まってきた各部族の兵をそのまま編成すると、プラケシンに北上するように命じる。
「余はマトゥラーから開始して、ペシャワールまで征服する。そなたらは死ぬ気で駆けて、ペシャワールまでに余に追い付くように。追い付けぬ場合は、全員の首を刎ねる」
アシンドラの騎馬隊は、韋駄天の異名を得るほどの快足を誇る。事実、今回も伝令から半日も経たずにバーダーミに辿り着いた。その速度に追い付けと言うのだから、無茶もいいところだ。だが、アシンドラは本気であった。
「チャールキア軍には、この長駆で無敵の軍団へと変貌してもらわねばならぬ。監察の騎兵を百騎置いていく。遅れた者は、全てこの騎兵が斬り殺す。死にたくなければ、駆けるのだ」
アシンドラが本気と知って、プラケシンと族長たちは戦慄した。思えば、この男はパータリプトラへの進軍も誰にも知られぬほど迅速に行ったのだ。兵の運用に於いて、何より速度を重視しているのは、確かのようであった。