第十四章 エラムの内訌 ―6―
切り取った鴨の肉を口に運ぶ。オレンジの爽やかな香りが鼻腔をくすぐる。噛み締めるとじゃわっと肉汁が口の中に広がった。
「旨いな!」
固いパンと塩辛いだけの干し肉と比べると、蕩けるような旨さであった。思わずクルシュの相好も崩れる。
「……これは」
肉を頬張ったチャリパーも、その旨さに思わず絶句してしまう。鴨の肉くらい食べたことはあるが、この付けだれが絶品であった。酸味が食欲をそそり、いくらでも食べられそうだ。
「こいつはあたしの副官に教えてもらったたれでね」
鴨の肉を噛み締めながら、アナスは語った。
「剣の腕はなかなか上達しないけれど、料理は親衛隊でも一番ね」
「この味なら、わたしの家臣にも欲しいくらいだ」
クルシュの言葉に、二人の騎士も異論を挟まなかった。タリアナで一番旨いと評判の食堂でも、こんな料理は食べたことがない。
「ところで、アナス。おまえはあの巨人の正体を知っているのか? クティク・シクやルフラテル、ただの人間であった二人が何故あのような巨人に変貌したのか」
「あれは神よ」
さりげなく言われたので、クルシュは初めその言葉の意味を掴み損ねた。数瞬遅れて、その言葉の衝撃がクルシュの喉を詰まらせた。
「ごほっ、何だって、神?」
「ええ。エラム人がかつて祀っていた神インシュシナク。最も力強き王として、神々の王マルドゥクの中に封じられていたのだけれど、マルドゥクの死とともに、再び甦ったのよ。それがクティク・シクの体に降り、ルフラテルに加護を授けた。あんな体になったのは、そのためね」
クルシュは部下の騎士と顔を見合わせた。ダーヴードもチャリパーも、アナスの話に付いていけていない。いきなりエラム人の神とか言われても、信じられるわけがない。
だが、クルシュは何となく納得できた。あんな非常識な投石をする存在が、人間であるはすがない。神と言われた方がまだしっくりくる。
「神が相手では、ただの人間である我々に対抗できるはずもないな。シラージシュのバームダードでもどうすることもできまい」
「普通ならそうね……。でも、あたしたちは……神を斃したことがあるわ」
アナスの強い双眸に射すくめられ、クルシュは思わずたじろいだ。無論、エジュダハーのことを言っているのは、クルシュにもわかっていた。太古の混沌の一族たるエジュダハーは、本当に旧い神の一人である。
「あの竜王の小山のような巨体に災害のような魔術の数々に比べれば、インシュシナク程度は恐れるに足らないわ」
そうなのかもしれない、とクルシュは納得することにした。五十人の傭兵をあっと言う間に灼き尽くしたこの少女の力もまた、計り知れないものがあると思ったのだ。
「ナーヒードがあれを倒してくれると?」
「ちょっと違うわね」
アナスは軽く首を振った。
「貴方がシラージシュ軍の指揮を執り、あれに立ち向かうのよ。そうしたら、あたしがあれを倒してあげるわ」
「わたしが?」
クルシュの目が細くなる。冷静な政治家の貌だ。その表情には、甘さや油断はなかった。
「わたしを傀儡にして、シャーサバン家がこの地を支配したいのか?」
「細かい政治の話は後で王都の連中と決めてくれればいいわ。あたしは、ナーヒードさまを王の中の王と認める王を擁立したいだけ」
「シャーサバン家をアーラーンの王家として認めるのには些かの抵抗はあるが……」
かつてアーラーンを支配していた一族としての誇りはある。だが、それだけで判断をするほど、クルシュは愚かではなかった。
「バームダードではパールサ人は纏められん。わたしにもその力はないだろう。アナスよ、おまえはナーヒードにその力があると言うのか?」
「ナーヒードさまはカウィの光輪をお持ちなのよ。アールヤーンの民を束ねる資格があるのは、あの方以外にはいないわ」
カウィの光輪。
アールヤーンの民にとって、それは神より与えられし王の証である。その認識は、ハラフワティーによって書き換えられたエラム王国のパールサ人にも残っていた。光明神を孔雀の王、堕天使と呼んでいても、カウィの光輪は否定できない。何故なら、それはアールヤーンの神である水と豊穣の女神や太陽神にとっても聖なる象徴であるからだ。
もっとも、クルシュはハラフワティーの虚空の記録の書き換えの影響からは脱していた。アナスの最善なる天則の力は、神による虚空の記録の書き換えを無効化する。クルシュと二人の騎士程度の人数なら、接触し話をした程度で十分だ。
「だから、貴方がパールサとスシアナの王となりなさい、クルシュ」
アナスの瞳は、相変わらず強い光を放っていた。クルシュは思わず軽い目眩を覚え、右手でこめかみを押さえる。アナスの言葉には、何か抗い難い強烈な力が働いているようにすら感じる。だが、悪しき方向性ではない。それだけはわかった。
「人にはそれぞれの器と役割がある、か。わかった、ナーヒードとおまえの絵に乗ってもいい。だが、シラージシュの軍をわたしが率いるのは無理がないか?」
「臆病者のバームダードが自ら出陣するはずがないし、そこは何とかしなさいな。そう言うのはお得意なんでしょ」
体よく押し付けられたクルシュは顔をしかめた。だが、アナスが言うことももっともだ。王座を手に入れようと言うなら、他人の敷いた軌道の上を走るだけではいけない。
「やってみるか」
少なくとも、このままシューシュ軍に敗れたまま終わるよりは、面白くなりそうだ。
「その代わり、この鴨をもう一回食わせてくれよ。これだけじゃ、ちょっと食べ足りないな」
「あら、食いしん坊ね」
楽しそうにアナスが笑った。
「貴方が生き延びて王になったらね」
にやりとクルシュも笑った。