第十四章 エラムの内訌 ―2―
「最も力強き王とはアガデでの呼び名で、シューシュの守護神インシュシナクのことよ。ご多分に漏れず雄牛の神で、かつてはマルドゥクも恐れた実力の持ち主ね」
アナスの説明に、エルギーザはやや不明瞭な表情で応えた。彼は色々な事情に詳しいが、さすがに古エラムの宗教までは通じていない。
「エラムの最盛期には、インシュシナクの兵が神の門に乱入し、マルドゥクの神像をエラムに持ち去ったと言うわ。かつてはマルドゥクをも破るほどの神であったと言うことね。でも、最終的にマルドゥクに敗れ、その力を奪われていた。それが、復活したのよ」
「神の門がミーディールの手に落ちたことは知っていたが……。マルドゥクがハラフワティーに敗れ、力を喪ったと言うことなのか?」
「ええ。神々の王がいなくなり、封印から解放された太古の神々が動き出したわ。インシュシナクもその一柱ね」
エルギーザは有能な男であるが、神と戦えると思っているほど不遜ではなかった。パールサブラでハラフワティーにあしらわれた過去もある。いつも貼り付かせている笑顔が強張った。
「大丈夫なのか? そんな神を相手に、人間に何ができると思っているんだ」
「そうね。少なくともあたしはハラフワティーの分身を相手にするのが精一杯だったわ。本物には勝てる気がしない」
アナスはマルドゥクとハラフワティーの戦いの全てを目撃した。マルドゥクは神々の王に相応しい力量を持っていたし、ハラフワティーもそれに匹敵する強さを誇った。ファルザームはアナスには神を超える力があると言うが、いまのアナスでは、あのニ柱の神に太刀打ちできるとは思えない。
「でも、インシュシナクくらいには勝てるようにならないと、この先やっていけなくなりそうだから」
神々が人間をどう扱うか、気紛れなハラフワティーを見ていると想像できる。気に入っているときは惜しみ無く恩寵を与えるが、飽きてしまえば投げ捨てる。
「ちょちょいってやっつけてやらないとね」
エルギーザも、神の加護を持つ男である。天空と風の王の力は光明神から与えられる加護の一つであるが、その元となるのはシンがデイオスとアッシュールから奪った力だ。特にエルギーザは、暴風神の力を強く受けている。しかし、神と神の加護を受けた人間との差は大きく、エルギーザが神に立ち向かえるとは思えない。
「シューシュに潜入するのは難しいよ。派遣した部下が、すでに何人か消息を絶っているんだ」
「流石に神と軍の両方を相手にはできないわよ」
アナスは単身でのシューシュ潜入は否定する。サーリーに潜入し、ハラフワティーの分身を倒したときとは状況が違う。あのときは、軍も特殊部隊も出陣中で、都市はもぬけの殻であった。今回は、インシュシナクは軍とともに行動する公算が高い。
「つまり、インシュシナクを倒すためには、シューシュとシラージシュの軍をぶつけ合わせて、その隙に戦場で討ち取るしかないと思うわ」
「カシュガイの兵をなあ」
それは、エルギーザも考えなくはなかった。と言うより、シューシュの軍が勝手に動けば、国王としてバームダードはそれに対処せざるを得ないはずだ。
「シューシュの状況をバームダードは知っているのかしら」
「そんな器量はバームダードにはないと思うよ」
カシュガイの族長時代のバームダードは、見かけは口ひげを生やした渋いおじさんであったが、中身はあまり大したことはないとアナスは見ていた。それについては、エルギーザも同意見のようである。
「シューシュは、少し前まではルフラテルと言うエラム人が太守を勤めていた。だが、クティク・シクが短期間のうちにルフラテルの地位を奪い取った。ルフラテルは無能な男ではなく、バームダードの地位も窺おうかとしていた実力者であるにも関わらず、だよ。むしろ、クティク・シクの方が、ただの地味な文官と言う評価しかなかったのだがね。ルフラテルは、今ではクティク・シクの右腕として働いているそうだよ」
「エラム人なら、インシュシナクにひれ伏しても当然ね。ルフラテルはインシュシナクの信奉者になったのよ。それくらいの虚空の記録を操作することくらいインシュシナクにとって簡単なことでしょう」
クティク・シクがいくら神としての力を持っていても、人間の軍事の能力があるとは限らない。だが、ルフラテルと言う有能な補佐がついたなら話は別だ。シューシュの兵をまとめて攻めてきたら、シラージシュのバームダードでは防衛しきれまい。
「悩むことはない。バームダードを勝たせなくてもいい。戦場でクティク・シクを討てばいいだけだ。戦いが起きたらそれを利用しよう」
エルギーザは合理的に判断し、バームダードを勝利させる戦略はないと放棄した。カシュガイ部族はそれほど弱い兵ではないが、指揮官が有能ではない。ルフラテルがインシュシナクの加護を得ていたら、とても相手にならないだろう。
「できればそれで済ましたいのよ。でも、ファルザームさまが、この機会にシラージシュを聖王国の手に取り戻す方策を立てろとおっしゃってるの」
「兵も出さずに神を討ち、しかもシラージシュを取り戻せと? そりゃ宮廷書記長官の仕事じゃないよ、全く」
流石にエルギーザが呆れ、呪詛の言葉を漏らした。アナスは寛容に師匠の不敬を見逃した。内心、似たような思いであったのだ。
「兵は出せないけれど、強力な味方を派遣するとおっしゃっていたわ」
「強力な味方と言ってもヒシャームもシャタハートも軍務で動かせないんじゃないかな。そりゃ、ファルザームさまが自ら来られるなら別だけれど、この間アナスと暫く都を空けていたせいで、かなりお忙しいのでは」
「そうね。バクトラと交渉中だから、東方拝火教団との話し合いもあるみたいだし。それに、アルシャクが西に行ったお陰でパルタヴァ地方が空白地帯になっているのよ。その処置も話し合われているみたいよ。だから、ファルザームさまが自ら来られることはないわ。来るのは、例の二人組よ」
「例のって……ああ、あのザリチュとタルウィのことか」
確かに、亜神が援軍として来てくれるなら心強い。しかし、ファルザームはどうやって彼女たちと連絡を取っているのだろう。いや、考えてみれば、ファルザームは光明神の最高祭司なのだ。光明神の配下の亜神であるザリチュとタルウィに話を付けることくらいは容易いのだろうか。
「アーラーンは元々乾燥した岩山しかない土地だそうよ。僅かな泉や地下水路も、彼女たちの加護がなければすぐに枯れてしまうんですって。だから普段はとても忙しいらしいのだけれど、ファルザームさまの頼みは断れないみたい」
最近アナスはファルザームと行動することが多いせいか、彼からの知識を大分得ているようだ。エルギーザも知らないような詳しい情報を持っている。親衛隊にロスタムとシャガードの兄弟がいるお陰で、アナスがナーヒードの側を離れても身辺に不安はない。将来的にアナスは親衛隊長の地位をロスタムに譲ってもいいと思っていた。兵を率いて動くより、こうして単独で動く機会が多くなるかもしれない。ならば、親衛隊長の地位は相応しい者に任せればいいのではないか。
むしろ、拝火教団の特別な地位に付いた方が役目としては合っている気がする。それだけの資格も加護も彼女は持っている。今度ナーヒードとファルザームと話してみようと結論付け、アナスは意識を元に戻した。