第十三章 神々の王 -8-
「かつて、マルドゥクはちちさまと大陸の西側を我が物とすることで同意したらしいゆえ、あにさまにもそれくらい目指して欲しいと思っているわえ」
煙に巻くようにイシュタルが笑った。シャマシュにとっては、この妹は常に油断のならない存在であり、笑顔に騙されることはない。権勢欲も戦闘欲も物欲も性欲も桁外れに強い欲望の塊のような女神がイシュタルだ。世界を救済せんと考えるシャマシュとは方向性がかなり違う。
「まあ、いいだろう。どのみち、わたしはエルとも父上とも戦わねばならぬのだ。暫く協力することには反対はしない」
それだけ言い捨てると、アルシャクの肉体からシャマシュの気配は消えた。イシュタルは薄く笑みを浮かべると、ジャハンギールとセミラミスを呼び寄せ、指示を下した。
アルシャクはパルタヴァ騎兵とアムル騎兵をまとめるべく離れていく。フィロパトルも、ケメトの軍団にバグダドゥへ引き揚げを命じていた。ケメトに帰るにせよ、一度損害の確認や補給もせねばならない。
セミラミスには、マート・ハルドゥ人の取りまとめを命じる。すでにイシュタルは虚空の記録を書き換え、マート・ハルドゥ人をおのれの民としていた。神の門の管理は余人に任せるわけにもいかない。管理に長けたマート・ハルドゥ人の神官団の力は必要である。
ジャハンギールには、カラト・シャルカトへの帰還を命じた。恐らく、すぐにウラルトゥへの出撃が待っている。獣の民によるウラルトゥ侵攻によって、フルム帝国のウラルトゥ属州軍団は壊滅的な打撃を受けているはずだ。この機会を逃す手はない。
「羽虫どもがちょろちょろとしているようだが……」
ちらりとイシュタルは空を見上げる。そこには、戦いをずっと見つめていた光明神の手先がいた。宇宙の法則たるヴァルナの化身である小娘は厄介であるが、今はまだ決着を付けるときではない。大神を殺す力を持つあの小娘にぶつけるのは、太陽神あたりが適当なのだ。
「ニヌルタがいつまでも大人しくしていると思わない方がいいのではないかえ。妾に構っている暇があろうか」
からからと哄笑すると、イシュタルはセミラミスを従えマート・ハルドゥ人の軍団とともに神の門へと向かう。まずは、マルドゥクの設定した鍵であるアミュティスを手に入れねばならなかった。
「マルドゥクが敗れるとは」
想わず呟いた科白に、ファルザームの衝撃の大きさが表れていた。それだけいまの神々の王の力は強大であり、その体制が崩れることの予測は難しかったのだ。
「虚空の記録が書き換えられ、マルドゥクは蝿の魔王に堕とされた。あれだけ権勢を誇った神の末路としては哀れじゃの」
「光明神を孔雀の王と呼んでいるのと同じかしら」
南に去っていくイシュタルとマート・ハルドゥ人の軍団を見送りながら、アナスも口を開いた。
「そうじゃ。だが、光明神も大神であるから、それはアーラーン以東には広まらない。だが、部の民も奪われ、力を喪ったマルドゥクはもはやその悪名に対抗することもできまい」
「マルドゥクは死んだわけではないの?」
「神としては死んだも同然じゃ。精霊界の本体は無事であろうが、地上の神力の全てを喪った。もはや、神々の王として復活することはあるまい」
それに、マルドゥクの強大な力を支えていた五十の神々から吸いとった力が解放され、各地で旧き神々が復活を遂げている。それだけでもマルドゥクの圧倒的な力の復活はもうないと言える。
「わしらも忙しくなりそうじゃ。解放された神々が力を求めて人心を惑わし、アーラーンに叛乱を起こす可能性が高い。やっと落ち着いたと思ったが、まだまだ西に進出するには時期尚早のようじゃな」
「もう、ナーヒードさまがあんなに頑張られたのに、それを妨害するなんて神々も勝手なものね」
「神々は常に勝手な振る舞いをするものじゃ。そして、その神の勝手な振る舞いを糺すのがそなたの役割なのじゃ」
そのための最善なる天則の力である。これは、大宇宙の黄金律そのものであり、神々よりも大きな力を持つ。かつては契約と司法の神と呼ばれていたが、本来は大神よりも上位に位置する。拝火教では光明神の権能の一つに位置付けられるが、元々は別物である。
「いや、あたしハラフワティーにも勝てる気はしないんだけれど……」
アナスの最大の武器である神速すら通用しない以上、アナスがイシュタルに勝てる絵が浮かばない。力があると言われても、その使い方がわからなかった。
「なに、すぐにハラフワティーを相手にする必要はない。手頃な相手が出てくるじゃろ」
マルドゥクの封印から解放されし神々は、必ずアーラーン王国の前にも現れる。どのみちせねばならぬ相手なら、そこで神々との相手の経験を積めばよいのだ。
(ファルザームさま、ニルーファルはもう元には戻れないのでしょうか)
ヒルカの問いは悲痛な響きを帯びていた。ハラフワティーの戦いの間、ヒルカはずっと複雑な思いであった。それは、ジャハンギールとイルシュの同族を奪われたアナスも同様であったのだが、神の依代と言うより絶望的な状況に声色も暗くならざるを得ない。
「アナスを信じよ。悪魔すら亜神に変えてしまったのじゃ。ハラフワティーの支配を断ち切ることもきっと出来よう」
「丸投げはひどいと思うわ、あたし……」
アナスはぼやいたが、ハラフワティーに奪われたものは、きっちり取り戻すつもりではあった。
「恐らく、初めに火が付くのはエラムじゃ」
ファルザームが誤魔化すかのように話題を変えた。
「最も力強き王がシューシュの方角に消えていった。シューシュで起きた戦火が、シラージシュからアスパダナに広がるかもしれん……カルマニアやバクトリアに向かった光もあったゆえ、火の手は一箇所では済まぬであろうな」
「蛇の被害から復興していないカルマニアや、ヘテルの残党が燻っているバクトリアに何かあると困るわね」
神の顕現が人間を惑わし、戦火を広げる前に始末をする手もある。アッシュールやアガデ、シュメルに現れる顕現はハラフワティーやミフルが始末してくれるであろうが、余計な仕事を増やしてくれた女神にアナスは文句の一つも言いたい気分であった。
「ひとまずは、サナーバードに帰るぞ。陛下に報告もしなければならんし、今後の対策も考えねばならん」
ファルザームは鷹の翼を羽ばたかせると、東に向けて飛び去っていく。アナスも火の鳥の紅い翼を動かすと、その後ろに続いた。ヒルカの妖精は、こちらの偵察のために残される。
東の彼方に去り行く二人を見送ると、妖精はゆっくりと南下を始めた。まずは、神の門の現状を探らねばならなかった。