第十三章 神々の王 -7-
ベルシャザルは急速に消えていくマルドゥクの意識を感じていた。常ならば刺されたくらいの傷など再生の波動で瞬時に癒えているはずだ。だが、刺された傷から神気が抜け出し、権能が機能していなかった。
「そう、か……エルの言っていたのはアミュティスのことではなく……」
情に流されるな、とは皮肉な忠告をしてくれたものだ。ネボをけしかけたのはエルに相違なく、味方の振りをした父親と息子に裏切られた神が憐れであった。
「フィロパトルよ、そなたも神に利用されたのか」
崩れ落ちるベルシャザルを、ケメトの女王が冷たく見下ろしていた。冴え冴えとした美貌の中に、バーブ・イラの王は人とは思われぬ人形のような印象を覚えた。
「マルドゥクは逝ったようだわえ」
シタの構えを解き、イシュタルが近付いてくる。ベルシャザルにはもうマルドゥクの力は残っておらず、抵抗することはできなかった。
「神々の王が空位になったことにより、天命の書の所有権が放棄されました」
天命の書とは、虚空の記録への最優先アクセス権のようなものである。エルやネボのような知識の神や、光明神やイシュタルのような大神はある程度虚空の記録への干渉が可能であるが、天命の書の保持者はそれを上書きできる。そして、それこそが神々の王の最大の権力であった。
「円卓会議で次の神々の王が選出されるまで、天命の書は使用されません」
「つまり、力ある神が虚空の記録を好きにできる時代が来たと言うことじゃな」
神々の戦国時代がやって来る。イシュタルはそう言っていた。神々の王が目を光らせていたからこそ、勝手に虚空の記録が改変されることはなかった。だが、これからは個々の神が勝手にその力に応じて改変を始めるだろう。
「天命の書が……邪魔だったのかい?」
薄れ行く意識の中、ベルシャザルが呟いた。彼にはまだネボが裏切った理由がわからなかった。マルドゥクにもわからなかったであろう。ネボは常にマルドゥクに忠実であったし、関係は良好であった。
「父上はヘレーン人を好ましく思っておられなんだ。それだけですよ」
デイオスと対立を続けたマルドゥクは、ヘレーン人に対してはいい感情を持っていなかった。ケメトのヘレーン王朝を好ましく思っていたネボには、それが心配であった。むろん、そんなものは大した理由ではない。だが、この際口にする理由など何でもいいのだ。
「アミュティスを……頼むよ、ジャハンギール……」
最後にそう言い残すと、ベルシャザルは力尽き、瞼を閉じた。その瞬間に、イシュタルの勝利は確定したのである。
「五十の封印が解けたわえ」
厳かにイシュタルが語った。ベルシャザルの遺体から幾つもの光が浮かび上がり、空から彼方に飛び散っていく。それは、かつて旧い時代にマルドゥクに敗れ、力を吸収されていた神々の復活を意味していた。
そして、此処にもまた復活を果たした大神がいた。
黄金の髪を逆立て、眩いばかりの光を放ちながらアルシャクがやって来た。否、それはもうアルシャクではなく、太陽神の現身である。
「やはりきみだったか、イシュタル」
久しぶりに妹に会った割りには、シャマシュの感慨は薄そうであった。
「マルドゥクから解放してくれたことには礼を言うよ」
「とりあえず、飛び散った小神を駆逐するのに、あにさまにも力を貸してもらうわえ」
解放された五十の神々は、各地の小氏族をおのれの部の民にして勢力の拡大を図るはずである。まずはそれを始末しないと、ミーディールの安寧も図れない。
「アガデは妾が貰い受ける。シュメルはあにさまに譲るゆえ、そこで部の民を養うがよろしかろうて」
「シュメルの地か。ならば、懐かしのラルサでも貰うとしようか」
ラルサは、かつてこの地方に都市国家が栄えていた頃シャマシュを都市神として祀っていた都市である。むろん、今では滅び去り、砂の中に眠ってしまっている。だが、そんなことな大神ともなると関係はなかった。虚空の記録を書き換えれば、ラルサは甦るのだ。
「アムル人は貰っておく。ラルサはアムル人の都市であったゆえ。神の門はどうするのだ」
「アミュティスにでも支配させるわえ。門を閉じるわけにもいかぬゆえ」
神の門には、虚空の記録への接続を可能にする回路の大元がある。アミュティスのいる空中庭園がそれだ。それだけに、迂闊な者に管理させるわけにもいかなかった。
「バーディヤ人には、まだ暫し砂漠にいてもらおう。対決の刻は満ちていない」
「それは任せるわえ。妾の関知するところではない」
ネボには、カナンの地とミズラヒ人の奴隷が与えられた。シャームに駐留するフルム帝国の軍団と隣接する危険はあるが、エルとネボは性格的に同質であり、反撥心は少なかった。折り合いは付けられるだろう。
「それで、マルドゥクの遺した小神どもを始末したら、イシュタルはどうするつもりなのかね」
「決まっておる」
シャマシュの問いに、イシュタルは当然の如く答えた。
「円卓会議に出席する大神は八柱。エル、ネボ、ちちさま、あにさま、妾、イルカルラ、ニルガル、ニヌルタじゃ。恐らく、次の神々の王に立候補するのは、ちちさまとエル。そこに、あにさまが割って入るのじゃ」
かつての神々の王たるデイオス、アッシュール、マルドゥクの三柱はすでに地上での活動を終え、再び現世で権勢をふるうことは出来ない。
残る八柱のうち、人間を創造せし創造神エル、またの名をエンキが最も神々の王の座に近い。従えるフルム帝国も強大で、ミズラヒ人の信仰も確保している。
対抗馬となるのは光明神ズィーダ、またの名をシン、ナンナやヴァルナとも呼ばれる大神である。アールヤーン民族に広く信仰を集め、月の民やスグド人にも信仰される。
イルカルラは冥府の女王である。冥府とはムグール高原にある彼女の住拠であり、現在の彼女の支配する民はアヴァルガ人である。アヴァルガは気性が荒く、大量の死を振り撒く恐ろしい者たちであった。だが、彼女は神々の王の座には興味はなく、タムガージュとの戦いに熱中しているようである。
ニルガルはイルカルラの夫の戦いの神である。現在獣の民を従え、フルム帝国に災厄を撒いている最中である。イシュタルとは親しく、エルとの仲は悪い。
ニヌルタ、またの名をカールティケーヤはアッシュールの子供である。彼も軍神、戦士の神である。現在のミタンを支配しているのは彼だ。アッシュールの別名はエンリルや暴風の王であり、ミタンでも信仰を集めていた。だが、同じく信仰を集めていた雷の王ことマルドゥクもすでになく、ミタンは新しい時代に入っていた。ケーシャヴァに降臨していた色黒き神もその一柱である。だが、マヨンはイシュタルに敗れ、ミタンの支配権はニヌルタに移った。ニヌルタのシンに対する敵愾心は強く、今後もアーラーンとミタンの紛争は続きそうであった。
イシュタルとネボの支持があれば、シャマシュはそれだけで三票を集める。ならば、円卓会議で主導権を握れるのだ。イルカルラとニルガルが光明神につき、ニヌルタがエルに味方しても対抗できる。
「円卓会議の分断……新たな神々の王の就任を阻止するのか? 何を考えている、イシュタル」




