第十三章 神々の王 -6-
ネボは冷徹で陰鬱な神である。
元々味方の少ないマルドゥクの子供として生まれたため、アッシュールの派閥の神々とは疎遠であり、書物を友として生活をしていた。
だが、その平和な生活も初代の神々の王であった竜神ティアマトとの大戦が終わり、新たな神々の王として天空神デイオスが立ったことにより終焉を迎えることとなる。
天空神デイオス、またの名をディヤウス・ピトリ、またはアヌとも呼ばれる神は、アッシュールとエルの父神である。ヘレーン人を支配下に置くデイオスは、進んだ文明を背景に強大な権力をふるい、一族の神々を大陸に派遣して支配域を拡げた。
アッシュールにはアッシュール、バーブ・イラにマルドゥク、ハニガルバトにはシン、カナンにはエルなど有力な神々が配され、デイオスの支配を受け入れたのである。
ネボはケメトの地を与えられ、薄暗い書庫から引っ張り出される羽目に陥った。当初は貧乏くじの砂漠の大陸を割り当てられたとも思ったが、大河ルテルの恵みは予想以上に大きく、肥沃な土地であることがわかると開墾にも熱が入った。
ケメト人による古代ケメト王朝は、ネボにとっては故郷とも言える大切な土地になった。ネボは叡知に富んだケメト王家を愛し、自らの知識を惜しみ無く与えた。
転機が訪れたのは、アッシュールが支配する帝国の地が拡大し、シャームからカナンまでをも征服した頃であろうか。
威勢をふるうアッシュールはデイオスから神々の王の座を奪い、ハニガルバトからシン、シャマシュ、イシュタルらを退去させ、エルの支配下にあったミズラヒ人をカナン北部から追い払った。
アッシュールの軍隊はついにケメトの地にも到達した。父のマルドゥクや祖父のエルも対抗できぬアッシュールの大軍を前に、ネボは膝を屈しその支配を受け入れた。
だが、その屈従の日々は長くは続かなかった。マルドゥクのバーブ・イラは幾度となく支配下の民を入れ換えてきたが、マート・ハルドゥ人を得たことにより、ついにマルドゥクは反撃に撃って出たのである。
イシュタルのミーディール軍団の協力も得たマルドゥクは、アッシュール軍団を破って神々の王の座を奪った。そのとき、ネボのケメトもまた独立することができたのである。
だが、自由の空気は長くは続かなかった。神々の王の座を諦めぬデイオスが、ヘレーンの軍団を率いて東征に撃って出たのである。アッシュールの残党が潜むリュディア王国を滅ぼし、ウラルトゥ、シャーム、カナンを次々に征服した。ネボはバーブ・イラのマルドゥクとミーディールのイシュタルと結んで立ち向かったが、イシュタルが撃ち破られてミーディールが滅ぶと独立を保てなくなった。
仕方なくネボはヘレーン人の支配を受け入れ、ケメト人の王朝は途絶えた。だが、遠くミタンやスグディアナまで足を伸ばしていたヘレーン帝国が、偉大な皇帝の死とともに簡単に崩壊したのである。天空神自身の顕現でもあった皇帝を討ったのは、太陽神の顕現たるパルタヴァの若者であった。
ネボはケメト王国の支配権を取り戻したが、ヘレーン王朝はそのまま残した。ヘレーン人は理知的でネボの好みに合っており、彼にとっても都合がよかったのである。
マルドゥクは最後までヘレーン帝国に抵抗し、バーブ・イラを保っていた。しかし、デイオスとの抗争で力を落とし、大陸に覇権を唱える余力はなかった。
その隙に勢力を拡大したのが、太陽神のパルタヴァ王国である。シンのパールサ、イシュタルの旧ミーディール、空白のアッシュール、シャーム、カナンなどを劫掠し、その勢威は神々の王たるマルドゥクをも脅かした。
デイオスが駆逐された後のヘレーンを狙うアッシュールとエルにとっても、神々の王の座を守りたいマルドゥクにとっても太陽神は邪魔者となった。マルドゥクに相談されたネボは一計を案じ、太陽神の勢力下にある月神を唆した。
月神は本来アッシュールの派閥を代表する神である。太陽神と水と豊穣の女神の父親として、勢威をふるっていた神だ。だが、二人の子供の台頭により、次第にその神威を落としつつあった。
月神はマルドゥクと取引をした。アーラーンより東は月神が領し、西はマルドゥクが領すと。
シンとマルドゥクの罠にかかったシャマシュとイシュタルは封じ込まれた。自らの子の権能を取り込んだシンは、光明神としてアーラーンを築き上げる。
だが、力を回復させるのに時間がかかったマルドゥクは、勢力を伸ばす刻を失った。西からやってきたフルム帝国がヘレーンからシャーム、ウラルトゥを制圧し、マルドゥクを圧迫するようになったのである。それは、アッシュールを出し抜いたエルの勢力の伸長でもあった。
マルドゥクはエルの伸長を許すつもりはなかった。西は彼の領域なのだ。父親とは言え、もはやその権能は衰えている。正面から戦えば、マルドゥクが敗れる気遣いはない。
だが、エルは狡猾であった。彼は密かにネボと接触し、この孫を味方にすることに成功していた。その見返りとして、エルはネボに創造神としての知識を分け与えた。
ネボは虚空の記録から一人の人間の情報を拾い上げた。それを複製し、力を与えるとミタンの地に派遣をし、工作に従事させる。その男の名はババールと言い、後にミタンの六将となった。
ババールは、ミタンの旧き神を差し置いて力を持った新しき神の顕現ケーシャヴァに目を付けた。ミタンの旧き神は、かつてはアッシュールの派閥にいた神々である。アッシュールが神々の王の座から下りるとともに月神の家系とは袂を分かち、独自の道を歩んでいた連中だ。海千山千の古狸を相手にするよりは、力自慢の新顔を騙す方が容易い。
ネボの計略は当たり、ババールに唆された黒き神はミタンの兵を率いてアーラーンに侵攻した。目的は、封印された太陽神を解放することである。シャマシュはミタンではミトラと呼ばれ、崇敬を集める神であった。アーラーン王国を東へと拡張する光明神を牽制するには必要な一手だと、ババールはケーシャヴァに語ったのである。
ケーシャヴァは上手く封印の地に赴き、解除に成功した。だが、彼が解除したのは太陽神の封印ではなく、水と豊穣の女神の封印であった。虚空の記録の知識をエルから受け継いだネボが、マルドゥクやズィーダの保護を抜けて封印の入れ換えに成功したのである。
ネボがシャマシュではなくイシュタルを選択したのは、話がわかる相手を求めてのことである。理想家肌のシャマシュに比べ、現実的なイシュタルならマルドゥクを倒すためにネボと手を組む可能性がある。実際イシュタルは、マルドゥクがシャマシュの封印を保持していることを知り、彼を解放するためにネボと手を組んだ。
マルドゥクを殺すための短剣は、創造の神であるエルが用意してくれた。後は、イシュタルとの戦いでマルドゥクが隙を見せたときに突き立てるだけである。そのための器として、密かにネボはケメトの女王フィロパトルを用意していた。そして、いま最高のタイミングでマルドゥクに刃を刺したのである。