第十三章 神々の王 -5-
イシュタルが再び神槌ミトゥムを振り下ろした。マルドゥクを護る太陽神の光の幕が攻撃を防がんと輝きを増す。ミトゥムがその幕に弾かれようとしたとき、空間を震わした一撃が光の進路を歪ませ、防御の幕に穴を開ける。
「妾の馳走を味わうがよい、マルドゥク!」
空間を伝わって走るミトゥムの震動を叩き込まれ、マルドゥクは全身から血を噴き出した。再生の波動によって傷はすぐに回復したが、マルドゥクの表情は怒りで朱に染まった。
「神々の王に対して不遜な態度よな、イシュタル!」
「どうしたえ、マルドゥク。傷を負って仮面が剥がれたのかや」
ころころとイシュタルが笑った。
「それにな、妾の力を封じたつもりであろうが、神剣シタは何処にあろうと妾の呼び掛けに応えるのじゃ。とくと見よ、マルドゥク!」
イシュタルの右手に光が集まると、封じられたはずの神剣シタが再びその手に握られていた。女神は満足げにシタを二回、三回と振り回すと、不敵な笑みを浮かべる。
「太陽神の神光を最大で放ってみよ。妾には通じぬぞ」
「何を世迷い言を……先刻小手調べの光線にやられたばかりではないか。強がりはよせ」
不快感を露にしたマルドゥクは、自らの頭上に巨大な五芒星を描き出す。五芒に凝縮した太陽神の力が、先刻とは比べ物にならぬ熱量の光線をイシュタルに向けて放った。
極太の光線が走った。イシュタルはアナスの目にも映らぬ速度で踏み込むと、シタで太陽神の光を斬り裂き、二歩目でマルドゥクの懐ろに飛び込むと、その首を刎ねんとした。咄嗟にマルドゥクも身を捩るが、大きく肩を斬り裂かれ、再び再生の波動を使用する。
「妾の神剣に斬れぬものはなし。光を斬り、闇を斬り、そして神を斬るのじゃ」
「確かに驚異の一撃だ……。しかし、その威力と速度を出すのには、かなりの神力を使っているだろう。そう何度も振るえる一撃とは思えぬ」
再生の波動で全快したマルドゥクは、イシュタルの神力がかなり消耗しているのを見てとった。
「ふ……したが、それはそなたも同じであろう、マルドゥク」
「確かにそうだ。だから、此処で使わせてもらうぞ、軍団の統括者!」
マルドゥクは王輪を取り出すと、念を込めて空に投げ付けた。回転しながら舞い上がった王輪は黄金の輝きを発し、眼下の軍勢を照射する。
王輪の光を浴びた軍勢のうち、ケメトの兵士には変化は見られなかった。だが、バーディヤ人の戦士たちの体は光り始め、雄叫びを上げた。
いきなりバーディヤ人の駱駝騎兵が駆け始めた。
その速度はアナスの神速に匹敵し、ほとんどの人間の目には止まらなかった。咄嗟に太陽の剣を振るったアルシャクの命は助かったが、パルタヴァ騎兵の首が次々と舞い、大地に落ちた。
「軍団の統括者は、余を信仰する軍団の力を余に匹敵するまでに上げる権能なのだ。如何なる人間の強者と言えど、歯向かえるはずもない」
狂信的な信仰心を持つバーディヤ人を切り札とした理由は、この軍団の統括者の力を生かせるからであった。
マルドゥクの神力がみるみる回復していくのがわかった。軍団が命を刈り取る度に、彼の体には力がみなぎってくる。神力を消耗したイシュタルとの力の差は歴然で、マルドゥクの表情は得意げで鼻持ちならなかった。
「どうした、イシュタル。油断は大敵だぞ」
軍団の統括者に操られたバーディヤ人の騎兵が十人ほど、奇声を発しながらイシュタルに斬りかかってくる。
イシュタルは舞うように神剣を振るうと、一拍子で十の首を飛ばす。血飛沫が上がり、イシュタルの頬にその一滴が降り注いだ。イシュタルはその血を指で拭うと、ぺろりと舐めた。
「流石じゃ、マルドゥク。神々の王に相応しき権能の数々。妾の及ぶところではないようだわえ」
まるで降参宣言とも取れる内容に、マルドゥクも不審な目を向ける。イシュタルが言葉の内容とは裏腹に、泰然として余裕を見せているのも不可解であった。
「負けを認めるか、イシュタル。余に及ばぬとは言えそなたは世には稀な大神。余に服すと言うなら、命だけは助けてやらぬでもないぞ。世界には、未だ余に服さぬ愚か者がおるようだしな」
軍団の統括者を解き、マルドゥクは天地の支配者の威光を発した。神々の王に相応しき威光に、人間たちは敵も味方も自然とその場に膝を付き、頭を垂れた。それは、ジャハンギールやアルシャクとて例外ではなかった。
「妾がそなたに及ばぬのは認めてもよい、じゃがな」
イシュタルは艶然と微笑むと、シタを振るって無数の水流の刃を作り出し、マルドゥクの背後のケメト軍団に向けて放った。マルドゥクは失望したように目を細めると、ケメトの女王の隣に移動し、太陽神の光の幕を広範囲に拡げ、水流の刃を防いだ。
「今更フィロパトルを狙って何の得がある。自らの手を下したのでは力の回復もできぬぞ」
マルドゥクはイシュタルの意図を測りかねていた。力の差を感じたにしては、不審な行動が多すぎる。戦いはマルドゥクの思う通りに進んだはずだ。お互いに神力を消耗する戦いにもつれ込めば、軍団の統括者とバーディヤ人を用意したマルドゥクの勝ちは揺るがない。イシュタルには、もう打つ手はないはずだ。
「マルドゥクよ、偉大な神々の王よ、戦いとは、始める前に勝負がついておるものだわえ」
イシュタルが哄笑した。マルドゥクは冷たい何かが心臓に滑り込んでくるのを感じた。思わず振り向いた神々の王の視界に入ったのは、碧玉の瞳を漆黒に変貌させた美しきケメトの女王の姿であった。
「ま……さか……ネボか」
フィロパトルからは、膨大な神力が溢れ出していた。そして、その手に握られた短剣が、マルドゥクの左胸に突き刺さっていた。
「どうして……そなたは我が子供、ともに世界を手に入れんと協力してきたはず」
「初めからこれは父上を討つ計画でございましたゆえ」
ケメトを支配する書記の神は、冷たい声で言い放ち、短剣をマルドゥクから引き抜いた。
「此は神殺しの短剣。創造神エルの作りし神力を霧散させる神器。如何に強大な神とは言え、神力を断たれては何もできませぬ」
天地の支配者の効果が薄れ、人間たちが身を震わせながら顔を上げた。彼らはそこに、勝利を確信した女神と裏切りに遭った王の姿を見た。
「そなたの計画通りよな、ネボ」
筋書きを書いたのは、イシュタルではない。初めからこれは、ネボの父殺しの計画であった。
「ミタンに手下を送り込み、新米の神を唆してアーラーンに侵攻させたのもそなただ。虚空の記録を書き換え、妾と太陽神の封印を入れ換えたのもそなた。そして、妾に神々の王を殺す計画に協力させた」
「如何にも」
フィロパトルの声帯から、ネボの不気味な声が漏れると違和感が甚だしい。イシュタルの美意識にも合わず、女神は顔をしかめた。