第十三章 神々の王 -4-
竜の支配者の力を使い、マルドゥクは二匹の角蛇にイシュタルを攻めさせた。邪悪な瘴気を吐きながら黒いウシュムガルが迫り、逆からは清浄な聖気を放射しながら白いムシュシャトルが顎を開ける。竜の支配者に操られたその動きは電光のように素早く、ファルザームやヒルカには捉えきれない。アナスが辛うじて感知できるくらいだ。
だが、イシュタルは口の端を吊り上げると、艶やかな笑みを浮かべた。戦いの女神の血潮は沸き立ち、軽い興奮状態にいるようであった。
「かようなけだもの程度で何とかなると思うてか」
イシュタルが左手の神槌ミトゥムを宙に振るうと、びしりと空に亀裂が入り、そこから震動が二匹の角蛇に向かって伝わっていく。突然の空間の揺れに、ウシュムガルとムシュシャトルは身をくねらせてのたうちまわった。その隙を、戦いの女神は見逃さない。
神剣シタが一閃すると、ころりと二匹の角蛇の首が落ちる。アナスですら一振りしか見えなかったが、その一振りで首を二つ落とせるのか。
「その角蛇は、太古の混沌の軍団でも結構強かった方なんだがねえ」
「所詮そなたに敗れた残党ではないかえ。妾の相手ではないわ」
竜の支配者の力をあっさりと破られたマルドゥクはやや不機嫌になる。だが、五十の力を持つマルドゥクの引き出しはこんなものではない。
「イシュタルよ、そなたの権能をひとつ、封神の王の力で封じてくれよう」
「権能を封じるじゃと?」
イシュタルの瞳が警戒の色を帯びる。封神の王の力が、敗れた神を封印して力を奪う能力であることは知っている。だが、敵対者の権能を封じる能力があるとは聞いたことがなかった。
「背後を見よ」
マルドゥクが指差す先には、何か不可思議な円盤が出現していた。よく目を凝らしてみると、ルーレットのように区分けされ、そこにアラム文字で何か記載されている。
「妾の権能かや?」
イシュタルの呟きに合わせたように、円盤が回り始める。マルドゥクは意地の悪い笑みを浮かべると、右手に持った封神の刃を円盤に向かって投げ付けた。
刃は円盤のある箇所に刺さり、そこから発した光がイシュタルを貫いた。すると、イシュタルの右手に握られた神剣シタが、光と化して円盤に吸い込まれていく。回転の止まった円盤に記載されていた文字は、まさにシタと書かれていた。
「ほう、一番厄介なそなたの剣を封じられるとは、これは幸運。最強の剣と最強の盾を失い、まだ余に歯向かえるつもりかな」
「……これは驚いたわえ。さすがに神々の王を名乗るだけのことはある。先代エンリルが敗れたのもわかると言うもの」
イシュタルは空になった右手を眺めて嘆息した。神剣シタは、イシュタルの最も頼みとする武器であった。それを封じられたのは、確かに痛い。神水の水鏡も破られ、イシュタルは攻守の切り札を失ったのだ。
「さあ、木星と討滅の主の力を解放するよ。そなたの虚勢もいつまで続くかな、イシュタル!」
マルドゥクは、木星の星の欠片を大量に呼び寄せ、戦場全体に投下しようと目論む。それが為されれば、確かに全てが討滅されかねない。
「甘いわ、マルドゥク! 妾の金星の力を侮るでない」
イシュタルは同じく金星の欠片を召喚し、木星の欠片にぶつけて迎撃する。空の下の人間たちは、上空で激しく衝突する星の欠片に震え上がり、身動きも取れずにいた。
「これが、神々の戦いか」
太陽の剣を握り締めたまま、アルシャクは立ち尽くした。太陽神の恩寵を得た彼と言えど、人知を超える戦いには手も足も出ない。懼れを知らぬはずのバーディヤ人ですら空を見上げたまま動かず、戦場には奇妙な静けさがあった。
お互いの流星を撃ち尽くしたマルドゥクとイシュタルは、再び睨み合っている。アルシャクは右手の剣が震えるのを感じ、嫌な予感に囚われた。うなじの毛が逆立つこの感じは、いつもろくな結果にならない。できるならば、今すぐ逃げ出したいくらいだ。
「仕方あるまいな、イシュタル。次の力は余のように優しくないが、許してくれよ」
マルドゥクが印を結ぶと、彼の周囲を薄い光の幕が包み込んだ。そして、その光の幕から無数の光線が発し、イシュタルへと向かう。イシュタルは神槌ミトゥムを振るい、空間を歪めて光線を曲げ、被弾を防いだ。苦々しげに舌打ちをすると、マルドゥクに非難の眼差しを向ける。
「太陽神の力を使うかえ、マルドゥク。その無限の力を懼れるからこそ、月神を唆して、太陽神を封じたのじゃろう」
「洪水の破壊者よりも、魔術の王よりも強大な力だよ。太陽神こそ、余に相応しいとは思わないかね。なにせ、救世主様だ。人間の創造主を打倒し、人を救済へと導くはずだった神だ。闘争と殺戮による救済だがね」
「闘争こそ、人の子の性よ。妾は戦いの女神。愛も平和も、戦いの中にこそあるものじゃ。太陽神は妾の計画には必要ゆえ、力尽くで取り戻してくれようぞ」
イシュタルは神槌ミトゥムを大地に叩き付ける。激しい震動が大地を揺らし、人間は恐れおののいて地面に伏した。だが、マルドゥクはふわりと浮かび上がると、再び全身から無数の光条を放つ。イシュタルは再度神槌ミトゥムで空間を歪めるが、曲がった光条の先にはマルドゥクによって反射鏡が置かれていた。
乱反射によって逃げ場を塞がれたイシュタルに、無数の光線が襲い掛かる。結界を張って防御を固めたが、太陽神の光は易々と結界を貫き、イシュタルの体を灼いた。
初めてイシュタルに攻撃が通り、女神は体のあちこちを黒く炭化させた。急速に回復を行っているようだが、痛手を被ったのは確かだ。
「小手調べ程度の光量で酷い状態だな、イシュタル」
マルドゥクが嘲笑った。
「アッシュールの後継者になろうと色々画策していたようだが、所詮そなたでは力が足りぬのだ。神々の王を名乗るには何より圧倒的な力、旧い連中の誰も逆らえないほどの力がいるのだ」
「あんな頭に黴の生えた連中は、妾が叩き潰してくれる。じゃが、その前にそなたじゃ、マルドゥク!」
再生の終わったイシュタルが神槌ミトゥムを構え、一気にマルドゥクに接近して振り下ろす。神槌はマルドゥクの周囲に張られた光の幕に衝突し、激しい震動を撒き散らした。だが、光の幕は壊れず、イシュタルの一撃に耐える。
「太陽神の防御だぞ、イシュタル。そんなありきたりの攻撃で抜けると思うか」
「ありきたりかどうかは、もう一度食らってから判断するがよい、マルドゥク!」
再びイシュタルは神槌ミトゥムを振りかざした。