第一章 赤毛の小娘 -6-
公衆浴場から出ると、フーリとルーダーベフは帰っていった。
すっかり日も落ち、大宰相の市場も喧騒が去り、店も大体閉まっていた。
まだ開いてる茶屋から漏れ出てくる騒ぎを聞き流しながら、アナスは新しい友達のことを考えていた。
そう、友達だ。
フーリとル―ダーベフのことを、いつの間にか自分は友達と考えている。と言うことは、自分はあの二人とのおしゃべりが、存外楽しかったと見える。
す
「自分に正直なのよね」
公衆浴場だったからであろうか。別のところなら、あそこまで彼女たちが自分を出すこともなかったのではないか。
気がつけば、エルギーザが後ろを歩いている。この若者は、本当に気配を感じさせない。今も、女と遊んできたと見せながら、実は街の狙撃しやすい位置を警戒して確認してきたのかもしれない。狙撃手として一流な男であるだけに、護衛の技術も一流であった。
「あれ、これは……」
ふとアナスは畳み掛けている露店の前で足を止める。商品の中に、ガラス瓶に入ったバラ油を見つけたのだ。
「そいつはシラージシュ産の高級品だよ。街道は軍で溢れているし、新しい商品はなかなか入ってこないだろうな。もう今日は店仕舞いだし、金貨一枚のところを、銀貨九枚でいいよ」
アーラーンでは、金貨一枚は銀貨十枚、銀貨十枚は銅貨千枚である。銅貨で四、五枚も出せば、安い料理を食べられるのを考えれば、嗜好品に金貨一枚は破格の高さである。
「銀貨九枚でもあり得ないし……」
口では言ったものの、アナスは小袋をつかんで唸っていた。
「八枚なら買ってもいいけれどね~」
「敵わないな全く、それじゃこっちに儲けなしだよ。まあ、もう早くビールでも一杯引っ掻けたいし、そいつでいいや、お嬢さん」
アナスは商人に金貨一枚を渡し、ガラス瓶と銀貨二枚を受け取った。さすがに無駄遣いをしたかと気が咎めるが、それでもアナスは心が高揚するのを感じた。
そうよ、ル―ダーベフも言っていたように、これは必要な投資と言うやつよ。
投資って何かよくわからないけれど、アナスは気にしないことにした。
翌朝太陽が昇る頃、フーリが宿にやって来た。軍務官から金を受け取ってきたのか、宿への当座の支払いを済ませてくれた。足りなくなる頃にまた亭主から言ってくるだろう。
「姫さまは何か言っていたの?」
朝食の大麦のスープとハーブ粥を食べながら、アナスは尋ねた。
「特に何も言ってなかったです。ただ、ルーダーちゃんによるとですねえ、何でも殿下と第二騎兵大隊のアルデシル将軍が喧嘩したとか……特例で部隊を編成したことに噛み付かれたみたいですねえ」
「そりゃ、あたしらのことじゃない。でも、確かアルデシルって確か偏屈な爺さんよね……あたしらは口実で、元々姫さまに難癖つけたかったんじゃないの」
「うーん、確かに偏屈な方ですけれどー。でも、今日開催される軍議がやりにくくなったのは、間違いないみたいですねえ」
そこまではアナスには責任は取れなかった。何にせよ、後はナーヒードに任せるしかないのだ。そして、その軍議が終わるまで、アナスたちが暇なのもまた、間違いはなかった。
「仕方ない……また市場でも冷やかそうかしら」
「金貨は使うなよ」
外に出ようとしたアナスに、シャタハートが声をかけてきた。ぐぬとアナスは唸る。エルギーザが昨日の買い物をチクったに違いない。
「必要な投資なのよ」
「それは投資じゃない。逃避だ」
アナスは降参して外に逃げ出した。
大宰相の市場を、フーリと一緒に冷やかす。エルギーザがさりげなく後ろを付いてきているが、気にしない。フーリの興味はやっぱり織物にあるようで、色鮮やかな平織りの生地や長毛の生地を手に取って楽しんでいた。アナスも色々な刺繍布を比べながら、今度作ろうと思っている帽子に入れる刺繍の図柄を考えていた。
「おい、第一の落ちこぼれがいるぜ」
市場の中心部にある茶屋に、五人ほどの男たちが屯し、ビールを飲んでいた。彼らはフーリを見かけると、口々に騒ぎ出し、二人の前に回り込んで道を塞いだ。
「第一は王女殿下の隣で立っていればいいんだ。いくさに出るわけじゃねえしな」
「あー気楽でいいねえ。おれも第一だったら楽に金が貰えたのによお」
フーリの顔色がさっと変わった。楽しげだった表情が、とまどいと怒りと怯えに揺れ動いている。アナスも不愉快な気分になった。
「フーリさん、知り合いなの?」
「第二騎兵大隊の方たちです……たまに絡んでくるんですよ」
アナスは氷のように冷ややかな視線を彼らに向けた。いつもは燃え上がるような真紅の双眸が、氷点下のような冷たさを見せる。男たちは一瞬怯み、我に返ると一層声を張り上げた。
「なんでえ脅かしやがって……ただの小娘じゃねえか。甜菜みたいな赤い髪をしやがって……仲良しごっこは学校だけにしとけってんだ」
「よく回る舌ね。あたしをアーラーンの守護者キアーの娘と知ってのおいたかい?」
イルシュの先の族長の伝説は、王国に広く知られていた。十二年前、無敵のイルシュ騎兵を率いて、西の神の門の軍を打ち破った英傑である。彼が生きていれば、今回のミタン王国の侵攻もさほど心配することにはならなかっただろう。それは、王国中が認めることであった。
「キアーの娘……甜菜みたいな赤毛に女悪魔のような紅い虹彩。そうか、てめえが新しい第一の独立遊撃分隊とかの隊長だな」
「そうよ。イルシュのアナスは、フーリさんみたいに優しくはしてあげないわよ」
アナスは剣を鞘走らせると、閃光のように数閃振り抜いた。そしてそのまま軽やかに回転してターンを決めると、音を鳴らしてまた剣を鞘に納める。刃を髪の先をかすめられた男の顔が、滑稽なほど青白くなった。
「やるってなら相手をしてあげてもいいけれど……弱い者いじめをしても仕方がないし、剣じゃなくてそいつでもいいわよ」
アナスは茶屋の前の露台で第二の騎士たちが興じていたカードゲームを指差した。五種類の絵札からなるカードのゲーム、すなわちアス・ナスである。
アス・ナスは、「ライオンと大蛇」、「王」、「子供を抱いた母」、「二人の兵隊」、「踊り子」の五つの絵札が各四枚ずつ、計二十枚のカードで行われるゲームである。
初めに手札として五枚が配られ、チェンジはなくそのまま勝負となる。
ワンペア、ツーペア、スリーカード、フルハウス、フォーカードの順に役が高くなり、同じ役の場合は絵札の強弱で決まる。
「降参して逃げ出すなら今のうちだよ。あたしはポーカーにかけてはうるさいからね。あたしはこの金貨の入った袋を賭けてやるから、あんたたちも有り金全部賭けてもらおうかしら!」
どっかと露台に座り込むと、アナスは懐から金貨の詰まった袋を取り出し、叩きつけた。男たちの目の色が変わり、邪悪な笑みが浮かべられる。鴨が葱を背負って飛び込んできやがったと言いたげな目つきであった。