第十三章 神々の王 -3-
ベルシャザルの登場は、またニルーファルの出現でもあった。扇情的な衣裳に身を包んだ女神が、弾幕を張るイルシュの騎馬隊の上に降臨する。神気を隠そうともせずに溢れさせた戦いの女神に、戦場の兵士たちも思わず動きを止めた。
「決着の刻が来たようだわえ、マルドゥク」
「勝てると思っているのかな、イシュタル」
今までの戦いで、二柱の神は膨大な人の魂を獲得している。自らの支配下にある人間に殺させることにより、神は人の魂を奪い取り、自らの力と変えることができる。神が直接手に掛けた魂は消滅してしまうので、力にはならない。そのための代理戦争である。
今回の戦いで得た魂の数は、イシュタルのが勝っていた。更に女神は自らの信徒と交わることで、その精気をも力に変えている。今までとは比べ物にならぬほど、今のイシュタルの力は膨れ上がっていた。
イシュタルが神剣シタを掲げる。すると、東から轟音が聞こえたかと思うと、次第に濁流が向かってくるのがわかる。ディジュラ川の水の流れを、イシュタルがねじ曲げたのだ。
「水底に沈むがよい、マルドゥク!」
その挑発にベルシャザルの七色の瞳が黄金に輝き、神々の王マルドゥクが降臨する。泥を含んだディジュラ川の波濤が狂乱する大蛇のようにケメトの重装歩兵に迫るが、マルドゥクに焦りは見られない。
「この程度か、イシュタル」
マルドゥクがひらひらと手を振ると、怒濤のように迫る濁流が、ある地点に差し掛かるとともに急に消失する。空間を繋いで別な場所へと水を誘導しているのだ。空間を操る魔術はマルドゥクの得意とするところであり、バーディヤ人を呼び出した角笛などはその力を利用したものである。
「まだまだじゃ!」
イシュタルは再度神剣シタを振るう。シタから放たれた斬撃がマルドゥクの作り出した空間の歪みを斬り裂き、消滅させる。再び濁流が流れ出し、重装歩兵の顔色が変わる。
「小賢しいな、イシュタル!」
マルドゥクの周囲を取り巻く七色の風が解き放たれる。激しい風は溢れる濁流を巻き上げると、方向を変えイシュタルへと叩き付けられた。イシュタルがシタを振ると、水流は更に流れを変えて彼方へと流れ去っていく。
「遊びは終わりじゃ、マルドゥク!」
神域を展開したイシュタルは、右手に神剣シタ、左手に神槌ミトゥムを握り締めると、神速を超える速度でマルドゥクの懐ろに飛び込んだ。
(疾い)
神速を発動したアナスの目ですら捉えきれぬ速度の斬撃を、マルドゥクはいつの間にか取り出した三叉の神矛で受け止めた。ケーシャヴァが反応できなかったイシュタルの刹那の刃に、マルドゥクはしっかり対応している。
「確かに接近戦ではイシュタルの剣に敵う者はいないだろうがね。こちらも魔術の王を名乗る者としてそう簡単にやられると思われても困る」
三叉の神矛の三つの刃に電光が発したかと思うと、千もの稲妻がイシュタルに向けて放たれる。だが、激しい雷鳴とともに繰り出された稲妻は、イシュタルの前に現れた神水の水鏡に全て弾かれる。
「妾の盾をその程度の攻撃で抜けると思ったのかえ」
「その水の盾は厄介だね」
マルドゥクは左手に炎の神剣リットゥを握り締めると、今度は灼熱の炎を生じさせ、七色の風に乗せてイシュタルに向けて放った。リットゥの炎は七色の風と合わさり七つの頭を持つ炎の大蛇と化す。
全方位から顎を開けて炎の大蛇がイシュタルに迫る。女神は神剣シタを構えて踊るように飛び回り、炎の大蛇の首を悉く斬り落とした。
「見事だね、イシュタル。魔術の王の力をこれだけ受けきられたことはない。やはり、ここは武器の支配者としての力を見せるべきだろうか」
神々の王マルドゥクには、五十に及ぶ異名がある。それは、過去に撃ち破って封印し取り込んだ太古の神々の名である。マルドゥクはその封印した神々の力を自在に使い、神々の王と呼ばれる強大な神となったのだ。
マルドゥクの肩から腕が更に二本生えてくる。マルドゥクは生えてきた二本の腕で三叉の神矛を、従来の二本の腕で炎の神剣を構えた。
雷霆をまといし三叉の神矛を振りかざすと、激しい稲妻とともに降り下ろす。イシュタルは慌てず、神水の水鏡の絶対防御で弾き返す。雷霆を帯びた衝撃波があらぬ方向へと突き抜け、不幸な重装歩兵を数百人巻き添えにする。
「武器の支配者の一撃でも砕けぬとは、頑丈な盾よ」
「妾の神水の水鏡はまさに絶対なる防御。神々の王とて破れるものではないわえ」
「それはどうかな。魔術の王と武器の支配者に呪法の主の力を加えれば……」
マルドゥクの炎の神剣が、呪法の禍々しい黒い瘴気を帯びる。黒炎の渦を纏いながら、苛烈な斬撃かイシュタルの神水の水鏡に叩き込まれた。
黒炎の渦が波ひとつない水面を掻き回した。呪法の瘴気に聖なる水が毒され、透明に澄んだ水がどす黒く濁る。イシュタルは不快感に秀麗な顔をしかめると、変色した水を消し去った。邪悪な呪法に聖なる効果を打ち消されたイシュタルは、マルドゥクの多彩な攻撃に警戒の色を浮かべる。
「神とは思えぬ邪な術法を使いよるの。それが本性かえ、マルドゥク」
「これは、呪法の主の力で、余の一面に過ぎぬわ。次は、竜の支配者の力を見せようか」
マルドゥクが指を弾くと、空に裂け目が生じ、そこから二匹の角蛇が出現する。黒い角蛇がウシュムガル、白い角蛇がムシュシャトルである。凶悪な牙と前足の爪を光らせながら、二匹の角蛇はイシュタルに向けて十五ザル(約十五メートル)はある巨体を突進ささせた。
(竜族の王よりは小さいわね)
アナスはエジュダハーの半分の大きさの角蛇を軽く見たが、十五ザル(約十五メートル)は充分に厄介な巨体である。その質量を乗せた前足の一撃は、容易く硬い岩でも砕いてしまう。
だが、イシュタルから見れば図体がでかいだけののろまである。アナスですら止まって見えるウシュムガルとムシュシャトルの爪撃がイシュタルに当たる道理がない。
すれ違い様に神剣シタをウシュムガルの首筋に斬りつける。だが、角蛇が急に素早く動き、シタを頭の角で受け止めた。驚くイシュタルに、マルドゥクが楽しそうに笑った。
「ははは、イシュタル、余の竜の支配者の能力を甘く見るでない。竜を呼び出すだけではなく、思うがままに操ることも可能である」
マルドゥクの言葉を聞いたアナスは、竜族の王をマルドゥクが操作していなくてよかったと安堵した。三十ザル(約三十メートル)のあの巨体が、神速以上の速度で動くことを想像すると、その衝撃波だけで人など吹き飛ばされそうである。体当たりなど食らおうものなら、間違いなく挽き肉だ。
「多彩な能力じゃな、マルドゥク。だが、戦いには一剣があればよく、妾にはそれがある」
神剣シタを構えると、イシュタルは妖艶に微笑んだ。