第十二章 神の門 -10-
ケメトの斜線陣の左翼には、左翼の重装歩兵を指揮する副将のラテュロスと、セサリア騎兵を率いるメノンとプティアが控えていた。
彼らの前に陣取るのは、パルミラ軍団を指揮するゼノビアだ。フィロパトルとの直接対決を望んだゼノビアであったが、シャムシ・イルにその座を取られてむくれている。
だが、いまはいつまでも機嫌を損ねている場合ではない。智謀に優れたゼノビアは、ヘレーンの密集隊列の弱点を知っていた。
「ザブダス!」
ゼノビアは、信頼するベニサマヤド騎兵を率いる将軍を呼ぶ。
「セサリア騎兵をラテュロスの防御から引き剥がすのです。ウァブ・アラートは、軽歩兵千を率いて待機」
もう一人の将軍に機動力の高い軽装の歩兵を預けて待機させると、ゼノビアは遠くにいるラテュロスを睨み付けた。
ザブダスのベニサマヤド騎兵が接近すると、メノンとプティアのセサリア騎兵が動き出す。シャームを縄張りにするバーディヤ人のベニサマヤド部族は、戦闘に関してはシャームでも随一の勇猛さを誇る。だが、ザブダスはそれでもセサリア騎兵に勝てると思うほど傲慢ではなかった。
ベニサマヤド騎兵に与えられた任務は、セサリア騎兵を重装歩兵の横から引き剥がすことだけである。だから、メノンとプティアが自分を追ってくることを確認すると、ザブダスは速度を上げてできるだけ戦場から離れようとした。
だが、セサリア騎兵の追撃の速度は苛烈であった。メノンの千騎が後尾に食い付き、華麗な槍捌きでザブダスの部下を蹴散らしていく。その追撃の仕方にある方向へ誘導しようとしているのを感じたザブダスは、損害を顧みずに別方向へ馬首を巡らす。果たして誘導しようとしていた方向からはプティアの千騎か現れ、ザブダスは九死に一生を得たのだ。
「それでも、これだけ離れれば十分だ……見ろ、ウァブ・アラートが、重装歩兵の横腹に食い付くぞ」
高台から後ろを振り返ったザブダスは、薄汚れた軽装の歩兵の集団が重装騎兵の左から襲い掛かるのを見た。密集隊列はその特性上、正面の戦いに無双の強さを発揮するが、横や後ろからの攻撃に弱い。だから、セサリア騎兵が横の防御をしていたのだ。
だが、ザブダスがセサリア騎兵を引き剥がしたので、ラテュロスの重装歩兵の横腹はがら空きになった。最左列の兵士は盾を構えて抵抗しようとするが、長槍を回すことができず、飛び掛かられて隊列を崩した。
「今ですわ! 敵の密集隊列は崩れます。進撃してとどめを……」
嵩にかかって攻め立てようとしたゼノビアの背筋に、急に悪寒が走った。だが、その理由はわからない。此処までお膳立てをして攻め込んで、あと一息の勝利を掴み取らない法はない。ゼノビアの理性と明敏な知性は攻めろと言っていた。
違和感を感じたのは、聴覚に角笛の音が届いたときであった。角笛の音は普通のものではなかった。強い神性を感じる。あれは神器の類いであろう。
その角笛の音とともに、ウァブ・アラートの軽歩兵の背後に、突如として多数の駱駝に跨がった騎兵が出現する。
「あれは……アニザ部族のカミール・イブン・ハキーム! 何処から現れたのです!」
そう叫んだが、頭では正解はわかっていた。角笛で召喚されたのだ。マルドゥクの神力によって異界に隔離されているバーディヤ人たちが、あの角笛で召喚されて来るのだ。
今回現れたのは、アニザ部族の三千のみであった。しかし、後方を断たれたウァブ・アラートの部隊に生き延びる術はなく、瞬く間に壊滅させられる。ゼノビアには、どうすることもできなかった。
頭のいいゼノビアには、前進して戦端を開いた後に、自軍の背後にまたバーディヤ人を召喚されたらどうなるか、よくわかっていたのである。
再び角笛が吹きならされた。
今度は、斜線陣の㊨側で重装騎兵を壊滅させたアルシャクを包囲するように大部隊が出現する。シャマー部族の駱駝騎兵五千であった。
角笛を吹いているのは、フィロパトルの後方に控える神官部隊を率いるセミラミスである。膨大な魔力を要求する神器を、多勢の神官の魔力を吸い上げることで使用可能にしているのだ。
「や、やはり嫌な予感は当たったのですよ!」
ゼノビアが慌てる中、アニザ部族のカミールが三日月刀を掲げて叫び声を上げる。部下の戦士たちも、それに続いて同じ秋の声を上げた。
「聖戦!」
「聖戦!」
山津波のように、叫び声を上げながらカミールとアニザ騎兵が突っ込んでくる。狂信的な興奮状態にあることは、すぐにわかる。異様に輝く瞳に、素のカミールを知るだけにゼノビアは恐怖を覚えた。
「惚けるな、ゼノビア!」
パルミラ軍団の危機に、ジャハンギールのイルシュ騎馬隊が前進してきた。右手から更に前進し、アニザ騎兵の前に立ち塞がる。
「バーディヤ人はわたしが相手にしよう。そなたはラテュロスに対処せよ!」
「わたくしの陛下!」
ゼノビアの頬に血の気が戻る。
「そうですわ、ジャハンギールさまがわたくしを見捨てるはずがありませんわ! お行きなさい、パルミラの勇士たちよ!」
ゼノビアの号令でパルミラ軍団がラテュロスの重装歩兵に向かうのを見たジャハンギールは、安堵の息を吐いてアニザ騎兵に向き直った。狂気の光を瞳に宿したアニザの戦士たちは、三日月刀を振り翳してまっしぐらに突撃してくる。
「天の雷、構え!」
ジャハンギールの指示で、イルシュ騎馬隊の半数、約千騎が手にした棒状の武器を肩に担ぎ、先端をアニザ騎兵に向けた。
「まだだ、引き付けろ」
駱駝に跨がるアニザの戦士たちの狂奔は、離れていても伝わってくる。天の雷を構えるイルシュの熟練の射手たちも、緊張に顔を引きつらせた。
「距離二百」
ジャハンギールの傍らで距離を測っているのは、ラーメシュである。ヒシャームの姉であるこの女丈夫は、ジャハンギールの側近として誰よりも信頼を受けていた。
「距離百五十……百三十、百二十、百十、百!」
「よし、撃てえ!」
ジャハンギールの声とともに、戦場に落雷のような轟音が響き渡った。白い煙が生じ、その煙の向こう側で数百を越えるアニザの騎兵が鮮血を上げて駱駝から転げ落ちていた。
「神の剣、抜剣!」
ラーメシュの反対側にいた巨漢の戦士が、ずいと進み出てきた。彼は無造作にイシュタルから与えられた剣を引き抜くと、同様に抜剣した千騎に向かって叫ぶ。
「残りは貰うぞ、ジャハンギールよ」
「やれやれ、兄さんには敵わないな」
巨漢の戦士、それはジャハンギールの兄ルジューワであった。傲岸で力こそ全ての扱いにくい男であるが、その武勇だけは確かである。突撃の号令とともに、ルジューワと千騎の騎兵が敵軍に突っ込んだ。
アニザ騎兵は、まだ天の雷の衝撃から立ち直っていなかった。前列を走っていた数百騎が、轟音とともに一瞬でいなくなったのである。その中には、先頭を走っていたカミールも含まれていた。指揮系統も崩壊し、何が起きたかわからないまま、アニザ部族の戦士たちはルジューワの蹂躙を受けた。
血風が巻き起こった。