第十二章 神の門 -8-
「ケメトの女王が布陣しているのはわかるよ。わたしにだって、目は付いている」
ジャハンギールの西部軍団が南下してきた。ジャズィーラの兵一万を率いるアシャレド将軍、アスーレスタンの中央軍一万五千を率いるシャムシ・イル将軍、そしてパルミラの援軍一万を率いる最も傑出した女王ゼノビアである。
錚々たる武将たちを前にして、ディオケス、フラヴァルティス、アステュアゲスの東部軍三将は何処か気圧されつつ、微妙に反感を滲ませている。
アリザント家の出身である三人の総督にとっては、セム系アッシュール人の流れを組むアシャレドやシャムシ・イルは無論のこと、バーディヤ人のべニサマヤド部族の出身であるゼノビアなど認めることができないのである。
無論、最も認められないのは、この目の前にいる赤毛の巨漢のパールサ人である。
「アガデの歩兵を殲滅したのもお手柄だ。ディオケスの功は認めてもいい。だが、肝心のベルシャザルがまだ出てきていないじゃないか。わたしはフィロパトルの相手などしに来たわけではないのだがね」
理知的で温厚な王であるが、こと戦いに於いては容赦はない。イシュタルの加護を得たイルシュの騎馬隊とともに、瞬く間にかつてのアッシュールの地を制覇した男だ。
「偉大なるジャハンギール陛下がお出になるまでもありませんわ。ケメトの年増など、わたくしが撃ち破って御覧に入れます」
ジャハンギールの右に座っていたまだ若い少女が、競争心を剥き出しにして叫んだ。
「世界で最も美しい女王とか、あの年増には相応しくありませんわ。パルミラの兵は、ケメトなどに負けませぬ。是非わたくしにお任せを!」
戦場に立つジャハンギールに一目惚れをし、自らミーディールの軍門に下ったパルミラの女王であるが、智謀に優れている上、戦場の勇将であることも確かである。麾下の将軍ザブダス率いるベニサマヤド部族の騎兵も精強だ。
「まあ、待ちなさい。いまはハルパゴスに聞いているんだよ」
ジャハンギールは、ハルパゴスの能力を知っている。水鏡での偵察をしても、本当にベルシャザルが出てきていないのか問うているのだ。
「は……セミラミス率いる神官部隊は到着しております。だが、ベルシャザルとアミュティスの姿はなく」
ハルパゴスの報告に、ジャハンギールは暫し考え込んだ。この決戦の場に、王が出陣してこないなど、あり得るのだろうか。いや、そんなことはあり得ない。こちらには、血に飢えた戦いの女神が付いている。神々の王自ら出てこなくて、どうして勝利を得られようか。
「考えることはないぞえ、ジャハンギール」
そこに入ってきたのは、あちこちはだけた衣裳を身に纏った妖艶な美女であった。現れると同時に強烈な神気が周囲に充満し、思わずそこにいたジャハンギールとアルシャクの二人以外の人間は頭を下げてしまう。
「女神は何かご存知か?」
無論それはイシュタルであった。水と豊穣の女神としての貌よりも、戦いと舞踊と性愛の女神としての面が色濃く出てきている。先刻まで、誰かまた若い男の精気を吸っていたのは間違いない。
「マルドゥクは好きなときに好きな場所に現れる。いまそこにいなくとも、振り向けばいるかもしれぬ」
彼奴の相手は妾がやる、とイシュタルは笑った。人間は人間の相手をせよ、と。
「それと、小癪なことにマルドゥクはバーディヤ人に動員をかけておる。そこのパルミラの小娘なら掴んでおろうが、兵を潜ませておるゆえ気を付けよ」
それだけ言い捨てると、イシュタルはまたふらりと天幕の外に出ていった。すでにマルドゥクとの間では戦いは始まっている。人間に介入するために割く神力に余裕がない。いまは、虚空の記録の支配権の奪い合いが苛烈になっているが、さすがに双方とも自らの領域に対する防備は堅く、拮抗していた。
「バーディヤ人の伏兵の気配は感じておりましたが、存在を確認できたのはジュハイナ部族だけでしたが」
ハルパゴスが気を取り直して口を開く。
「ベルシャザルは全バーディヤ人に触れを回していますわ。これは、聖戦だと告げています」
「聖戦だと? しかし、マルドゥクはバーディヤ人の神ではなかろう」
目を閉じ、黙考していたシャムシ・イルが初めて口を開いた。長髯を蓄え、恰幅のいい壮年の将軍は、育ちのいいアリザント家の三総督を視線で黙らせる烈気に満ちていた。
「バーディヤ人の信仰は、母なる街にある聖なる黒曜石に捧げられているはず。聖なる黒曜石とは、無明なる神の秘蹟と聞いていたが……違うのか?」
「そうですね、概ね正解ですが、正確ではない部分もありますわ」
ジャハンギールとともに歩むことで、ゼノビアの記憶はイシュタルによって保護されている。だから、アルシャクほどではないが、マルドゥクに修正されぬ記憶を保持していた。
「バーディヤ人は、神に遣わされし救世主を待つ民です。その意味ではミズラヒ人と変わりはありません。ですが、救世主たる光の天使とは、喪われし太陽神のことなのです。太陽神が封印され、神々の王のもとに引き渡されたとき、神もまたバーディヤ人のもとから去り、バーディヤ人は神の記憶を喪いました。だから、無明なる神です。ですがいま、神々の王は掠め取った太陽神の力を使い、偽の救世主を名乗り、聖戦を発動しました」
太陽神を利用したのか、とアルシャクが呟いた。
アーラーンでのミフルは、アッシュールではシャマシュであり、シャームではシャプシュである。ちなみに、イシュタルはシャームでは豊穣の女神と愛と戦いの女神の両面を持つ女神として描かれる。ゼノビアから見ると、いまのイシュタルはアナトの面が強く出てきているように感じる。
「それにバーディヤ人は従ったのか?」
「全てではないと思いますわ。わたくしが知る限り、アニザやシャマーなどの部族は神の門に向かったようですが」
アニザやシャマーは、バーブ・イラとシャームに跨がって遊牧する遊牧民の部族である。ベニサマヤド部族とも交流があるため、ゼノビアは動向を掴んでいた。
「砂漠の遊牧民は、アールヤーンやイシュクザーヤら高原の遊牧民より気性が激しい者が多いですわ。彼らが聖戦の名のもとに動き出したら、もう誰にも止められない。わたくしはそんな予感が致します」
「同感だ。アガデの歩兵を殲滅したときに、マート・ハルドゥの軍団の陰に脅威を感じた。あれは、踏み込むと危険な感覚があった。ハルパゴス司令官も同意見だ」
ゼノビア、アルシャク、ハルパゴスはジャハンギール麾下の将帥の中でも信頼できる者たちばかりである。だが、ジャハンギールは敢えてその悲観的な見方を笑い飛ばした。
「はははっ、心配性だな、そなたらは。バーディヤ人の兵が出たとて、わたしと兄がいれば、どうとでもなるよ。イルシュの騎馬隊は女神より天の雷を与えられし戦士。いざと言うときは、わたしたちに任せればいいんだ」
弓のジャハンギールに対し、兄のルジューワは槍を操る名手である。頭は悪いが、その豪勇さは無双を誇った。そして、確かにジャハンギールの率いるイルシュの騎馬隊は、天の雷と称する不思議な武器を女神から与えられていた。アルシャクは、この武器を初めて見たとき、以前戦った男の使う魔術に酷似していたことに、ひどく驚いたものである。イシュタルは、その男の魔術を見て、この神器を作り出したらしい。
その男の名は、シャタハートと言った。