第十二章 神の門 -7-
マート・ハルドゥの二将軍が軍を下げると、ハルパゴスは深入りをしなかった。アルシャクにも追撃を避けるよう話そうとしたが、この男は直感的な判断できな臭さを感じ取ったか、部下を纏めて引き揚げてくる。
「あのままバグダドゥに進めば、潜んでいる何かが出てきた気がしたぞ」
スーレーン家のアルダヴァーンが論理的な思考を元にした鋭敏な判断で勝利を手にしてきた英雄なら、アルシャクは危険を肌で感じて動く勇将である。ある意味アルシャクこそ天才と言うべきかもしれない。
「何部隊か兵を伏せているのは確かだ。しかも、あれは確かジュハイナ族の兵だ」
「ジュハイナと言うと、バーディヤ人ではないか。バーブ・イラは砂漠の遊牧民を味方に付けたと言うのか?」
エルを信仰するミズラヒ人と異なり、バーディヤ人は特に信仰する神はいなかったはずだ。母なる街にある黒い箱を祀っていると言う話だが、何の神の聖遺物なのかは伝えられていない。
失われた神の民。それが、バーディヤ人である。
だから、マルドゥクがバーディヤ人を取り込んだとしたら、これは大問題になる。広大な砂漠に広がる彼らの数は膨大だ。全ての部族に挙って参加されたりしたら、とても勝ち目などない。
「アガデの一万を叩き潰した程度では、とても安心できそうもないな」
アルシャクの感慨に、ハルパゴスも同感であった。だが、いまの戦力でこれ以上深入りするのは危険かもしれない。ハルパゴスの見解に、アルシャクも同意する。きな臭さを感じ取っているようだ。
そこに、再編を済ませたディオケスが憤激しながら入ってきた。ディオケスは、今回の作戦を一人だけ聞かされていなかった。だからこそ退却が本物で、アガデ歩兵を引き付ける結果になったのだが、囮にされた当人にしてみれば、たまったものではない。
「これはディオケス卿。ナラムを嵌める手際は見事であった。此度の功一等であると陛下には伝えておこう」
澄ました顔でハルパゴスは言った。先手を取られたディオケスは何かを言いかけて口をぱくぱくさせたが、諦めて息を一つ吐いた。
「軍団司令官は、遣り手であるな。だが、わたしに女神の加護がなかったら、包囲は前方だけ空いた形になり、ナラムは生き延びていたかもしれん。部下を死地に追いやる遣り方は感心しない」
「だが、生き延びただろう」
無遠慮にアルシャクが口を挟んだ。アムル騎兵を止めなかったことに反感を抱いていたディオケスは、思わずアルシャクを睨み付けた。
「普通に戦っていたら、そなたは戦死していた。頭だけで戦いを考える指揮官は、大抵初陣で死ぬ。両翼の兵の動きを見誤ったであろう」
アルシャクの言葉に、ディオケスは反論できなかった。確かに、両翼の徴用兵の動きは遅かった。常備軍の進軍速度であれば、弓兵に展開される前に接近していた。ディオケスの計算では、両翼を進軍させた段階で巻き返していたはずなのだ。
「ハルパゴス将軍は、初陣でのその経験を積ませるために敢えてそなたに今回の任務を割り振った。それを生かすも殺すもそなた次第。よく考えることだな」
ハルパゴスは、唇を噛み締めるディオケスの肩を優しく叩いた。叩き上げの将軍の役割には、新米の指揮官を使えるようにすることも含まれている。自尊心と反感をありありと顔に表していたディオケスであったが、さすがにアルシャクの言葉を理解できぬほど愚かではなかった。
ディオケスは不承不承引き下がった。どのみち、これで成長できねば、次の戦いでは生き残れないだろう。バーブ・イラ軍は、ミーディール西部軍の南下に合わせて全容を見せてくるはずだ。かつてないほどの激戦になる。ハルパゴスには、それがはっきりとわかっていた。
不思議なことに、ハルパゴスとアルシャクは馬が合った。実戦を重ね、肌で戦いを理解している男同士だからであろうか、お互い戦場から感じることが似ているのである。
その二人が、ジャハンギールが来る前にこれ以上深入りするのは危険だとともに感じているのである。必ず、何かがある。とりあえず緒戦でアガデ歩兵を壊滅させて功は立てているので、いまは無理をしない方が賢明であろう。
ハルパゴスは北に軍を下げ、ジャハンギールとの合流を待つことにした。アルシャクは麾下の騎馬隊を駆け回らせて、戦場に隠された匂いを読もうと試みるが、今一判断がつかなかった。
一つだけ、ジャハンギールの南下に合わせて、神の門からケメト軍三万が北上してきているのはわかった。
絶世の美貌を謳われるフィロパトル女王に率いられたケメト軍団は、ヘレーンの伝統を受け継いだ重装歩兵、重装騎兵、銀盾隊、セサリア騎兵から構成されていた。
銀盾隊は、フィロパトルの親衛隊である。輝く盾と戦斧を軽々と扱う筋力の大男たちで構成され、剽悍さでは類を見ない。面食いの女王は親衛隊の条件に容姿も追加したため、何れもヘレーンの神話に出てくるような英雄のような男たちであった。厳選された分人数は多くなく、二千人である。ヘレーン人のみで構成されている。
重装歩兵は鉄製の丸盾と長槍を持ち、鎧兜に籠手やすね当てを装備していた。密集陣形の中核をなす兵科であるが、当初は自由民のみで構成されていたが、いまは志願兵の割合が多い。ケメト人が多数であるが、ヘレーン人やアマーズィーグ人も混ざっている。
重装騎兵は貴族で構成された精鋭の騎士である。数は五百騎と多くはないが、専門の訓練を積んだ騎士たちは強力な打撃力を誇る。ヘレーン人のみで構成される。
セサリア騎兵は、ヘレーンの高原地帯であるセサリア地方の遊牧民で構成された騎馬隊である。かつてヘレーンが大陸を席巻し、遥か東方のヒンドゥシュ川流域まで制圧したときの主力の一角となった騎馬隊の、その末裔である。ヘレーンがケメトを領土としたときに駐留していた者が、今もその伝統を受け継いでいるのだ。当時大陸最強を誇った騎馬隊は、二千騎を数える。セサリア人のみの構成である。
ケメト軍団三万は、ハルパゴスの東部軍などとは比べ物にならない精鋭であった。偵察を行っていたヴァラーグが、セサリア騎兵に追い回されて戻ってくる。セサリア騎兵の指揮官は、メノンとプティアと言う双子の男女であった。お互いに千騎ずつを率いるが、双子ゆえか息の合った連携は非常に高度であり、撤退が一歩遅ければヴァラーグの騎馬隊は全滅していたかもしれない。アムル騎兵を相手にしているようなつもりでいると、パルタヴァの精鋭ですら危ういかもしれなかった。
「ケメトの女王を援軍に呼び寄せるとは……」
アルシャクから報告を受けたハルパゴスも絶句する。
ヘレーン本国がフルム帝国に併合されたいま、その系統を継いでいるのは間違いなくケメトである。フルムの軍団の前は間違いなくヘレーンの密集戦術が最強だったのだ。その力をいまに受け継ぐケメト軍団に、ミーディールのひ弱な兵士たちで相手になるとはとても思えなかった。まともにぶつかれば、勝負は一瞬でミーディールの歩兵が蹴散らされて終わる。
「ま、ジャハンギール王はパルミラの女王を援軍に連れてきているようだ。西方遠征で戦ったときに惚れこまれたらしいが、パルミラの女王も武勇で有名な御仁。女王同士ぶつけ合ってみるのも一興かもな」
「陛下とは明日にも合流できるだろう。何とかケメト軍団に対する策を考えられれば良いが」
ジャハンギールの南下とともに、決戦の秋は刻一刻と近付いていた。
アルシャクはそれを敏感に肌で感じ取り、逆立った産毛を見てにやりと笑った。戦いとは、楽しまなければならない。弱い敵を相手にしても、肌のひりつくような愉悦を得ることはできない。だが、今回の敵は楽しめそうであった。セサリア騎兵が相手なら、出し惜しみなく戦えそうであった。