第十二章 神の門 -6-
ディオケスは張り切っていた。
先備えでの出陣である。功名を求めていたディオケスには、都合のいい役回りだ。ここで敵のアガデ歩兵を撃ち破り、東部軍での一番手柄を取るつもりである。
ディオケスは決して愚鈍ではなく、むしろ戦史などを学んだ学識あるエリートの指揮官である。だが、今回が初めての実戦であった。
ハルパゴスは先備えをディオケスに任せることの危惧も抱いたが、今回の役割ならばむしろいい経験を積ませることになると思い直し、変更しなかった。盤上での模擬戦などでは、ディオケスは他の総督を寄せ付けない強さを誇るのである。期待もあった。
ミーディール総督軍は、千人の重装槍歩兵と、五千の軽装槍歩兵、四千の弓兵からなる。このうち、千人の重装槍歩兵は、常備軍で精鋭である。後の九千人は、今回の侵攻のために徴用した兵だ。勿論、中には傭兵もいるし、以前にも徴用されて戦いの経験がある者もいる。編成では、経験者を小隊長とし、中隊長、大隊長は軍の士官を充てた。
ディオケスにとって、ミーディール王国の王都はあくまでハグマターナである。アッシュール人の都であるカラト・シャルカトなど、王都として認めることなどできぬ。それは、イシュタルとしてセム民族の神であった期間が長く、アールヤーン民族の神ハラフワティーになったのが比較的新しい出来事であったことから生じている現象かもしれない。ハラフワティーは些細なことと気にもしていないが、ミーディールの人間からしてみたら、この遷都はかなりの大事であった。
前列に正規兵の重装槍歩兵を置き、後列に徴用の槍歩兵を配置する。左右の両翼にも予備に二列の槍歩兵を配する。弓兵はその後ろである。前列の精鋭部隊で押し込めれば、左右の両翼を進ませて一気に包囲する腹である。
「進め! アガデの腰抜けにミーディールの誇りを見せてやれ!」
流石に前列の重装歩兵は、整然と盾を構えて前進した。彼らの持つ槍は、投槍である。アガデの豊富な弓兵から雨のような矢が飛来するが、盾を構えて突喊し、投槍の射程に入る。
重装歩兵の大隊長から、投擲の指示が出る。一斉に放たれた槍は、アガデ歩兵の盾に突き刺さった。投槍の重みでアガデ歩兵が盾のバランスを崩すところに、剣を抜いたミーディール歩兵が斬り込んだ。
アガデの将軍ナラムは、前列が斬り込みで崩されたのを見てとるや、すぐに二列目を前進させて入れ換えた。最前列の懐ろに入り、取り回しやすい剣で優位に立っていたミーディール歩兵であったが、後列から前進してきた二列目の槍の突き込みに、苦戦を強いられる。距離が離れていれば、槍の方が有利だ。
重装歩兵の勢いが落ちると、ディオケスは両翼の歩兵を前進させ、左右から援護を試みた。ナラムは素早く弓兵を動かし出足を牽制すると、更に弓兵を追加し軽装歩兵を狙い撃ちにした。革の兜に革の胸甲、小さな丸盾くらいしか持たぬ軽装歩兵は、連続して放たれる矢に射すくめられるととても前進できない。練度の低い徴用兵たちは、これだけで崩れかけていた。
「不甲斐ない! 接近することもてきないのか!」
両翼の前列が混乱している間に、大回りでその外側から後列を動かす。機敏に動ければ弓兵に肉薄できたかもしれないが、徴用兵たちの進撃は何処か一拍遅れてしまう。その間にナラムは更なる弓兵を動かし、前進してくる後列にも射撃の雨を浴びせかける。
両翼が立ち往生している間に、中央の重装歩兵の動きが落ちてきた。鎧が重い分、動きの切れは長続きしない。前列がアガデの槍歩兵に押され出し、ディオケスは歯噛みする。
そこに止めを刺すかの如く、ディドニム族のアシリタ率いる二千のアムル騎兵が突入してきた。
「アルシャクめ、騎兵は任せろと豪語しておいて!」
もはや戦線の維持は不可能であった。中央前列の重装歩兵が崩れると、無傷なはずの後列もあっさりと潰走する。てんでに後ろに逃げてくる兵を叱咤するディオケスであったが、怒濤の如く前進してくるアガデ歩兵を前に退がらざるを得ない。
アシリタが指揮官を撃ち取ろうと、嵩にかかって攻め立てにかかろうとするところに、ソーハ伯爵イシュトメーグの騎馬隊が割って入る。アシリタは無理をせず横に流れた。騎馬の追撃は逃れたが、ナラムは槍兵を急追させ、散々にミーディール総督軍の歩兵を討った。血にまみれて哄笑するアガデの槍歩兵に、初陣のディオケスは恐怖に駆られて逃げ惑った。
「くそ、来るな、このおれが、こんなところで!」
無茶苦茶に剣を振り回しながらディオケスは逃げた。もはや戦況に気を配るどころではなかった。ゆえに、彼は気付かなかった。ナラムの後ろから進撃してくるマート・ハルドゥ軍を、ザルミフルとヴァラーグの騎馬隊が翻弄するように足止めし、先行するナラムのアガデ歩兵との間に空いた隙間にアルシャクのパルニ騎兵が突っ込んできたことを。
同時に、左右からフラヴァルティスとアステュアゲスの槍歩兵が、一斉にアガデ歩兵に突きかかった。攻勢限界に達していたナラムの軍は、後方の寸断と左右からの突き入れに陣形を乱した。
「ディオケス、ディオケスよ」
ひたすら逃げ続けていたディオケスの頭の中に、突如聞き覚えのある女神の声が響き渡った。ディオケスはぎょっとすると、きょろきょろと周囲を見回した。
「いまが機です。兵をまとめ、反転攻勢に撃って出なさい」
口調はハラフワティーらしくなかったが、声はまさに女神のものだ。ディオケスははっと戦況を見ると、いつの間にか追撃してきたアガデ歩兵が潰走状態に陥っている。
ディオケスは顔を紅潮させた。
軍学に明るい彼には、それがミーディール総督軍が敗北後退することを前提にし、アガデ歩兵を懐ろ深く引き込んで一気に包囲殲滅することを意図した作戦であることがわかったのである。
「莫迦にしおって!」
ディオケスは五百人ばかりの兵を取りまとめると、怒りながら混乱するアガデ歩兵に斬り込んだ。
「おのれ、謀られたか!」
ナラムの信頼するアガデ人の兵士たちが、四方からの攻撃にみるみるうちに死骸の山をも積み上げていく。これだけ接近されては弓兵も役に立たず、アルシャクの騎兵に蹂躙されている。
「イシュタルの走狗め、我が剣を受けるか!」
光り輝く太陽の剣を持ち、戦場を飛ぶように駆けるアルシャクに、ナラムは武人の意地をかけて立ち向かった。
アガデ帝国の末裔たる誇りをかけた一閃は、しかしアルシャクの目には蝿が止まるような遅さに感じた。黄金の閃光が煌めき、アルシャクはナラムの首を一撃で刎ね飛ばした。
アガデの将ナラムが討たれたのを知ったマール・ハルドゥの二将軍は、無理せず一度兵を後退させる。
アガデ人の兵は包囲されたまま磨り潰され、多くを討たれた。ディオケスは奇妙な叫びを上げながらアガデ兵を殺し続けたが、気がつけば回りにはもうアガデ兵の屍しか残っていなかった。
自分の兵の怯えた視線に無我夢中で高揚していた気分も一気に冷えたが、ディオケスは何とか取り繕いながらミーディール総督軍の再編を始めた。幕僚たちが怖がって一定の距離以上近付かなかったのは、ぶつぶつと口の中でハルパゴスやアルシャクに対する呪詛を呟いていたからであろうか。
初陣で死ぬところを助けてもらったとも知らず、軍団司令官から呼び出しが来るまで、ディオケスはずっと呟き続けたのである。幕僚たちの苦労が偲ばれると言うものであった。