第十二章 神の門 -3-
玉座の足もとには、一頭の獣が伏せていた。
蛇の頭に獅子の胴体、鷲の足と蠍の尾を持つ合成獣、ムシュフシュである。軍馬ほどの大きさの体を大人しく折り畳んでいた。
玉座に座るベルシャザルが瞳に宿った黄金の渦をこちらに向けていた。アヒメレクは、宮殿に自分を連れてこさせた王の真意を測りかねて唾を飲み込んだ。
「時間を費やす気はない。さっさと用件を言え」
地獄の底から響くような恐ろしい声がペルシャザルから発された。否、これはマルドゥクの声であった。神の声は人間の声とは異なり、聞くだけで押し潰されそうな威圧感があった。ミズラヒ人の祭司は、思わず一歩下がった。
「久しいな、わが息子よ」
アヒメレクの口が勝手に動き、嗄れた老人の声が漏れ出た。
「フルム帝国の教化は順調だ。ミクラガルズにある皇帝も、すでに我が手中にある」
エルはミズラヒ人の祭司を使い、フルム帝国のデイオス信仰をエル信仰に変更しようとしていた。幸い天空神はすでに封じられ、意志を働かせられる状況にない。エルの布教はうまく行き、帝国はほぼエルの手中に収められている。
「だが、頭の痛い連中が東からやってきた。冥府の女王の剣を掲げた戦争神の戦士どもだ。パンノニアからトラキアに入ってきて、ミクラガルズを窺おうとしておる。厄介な連中なので、協力して処理したいのだ」
「戦争神の戦士……獣の民よな」
ムグール高原から草原の道を通って津波のような西進を発し、サルマートやゴートと言う危険な民族を撃ち破って支配下に収めている。ハザール海の北あたりを拠点にしていたと思っていたが、もうパンノニアまで進出していたとは驚きだ。まさに冥府の軍勢のような連中である。
「しかし、どのみちイシュタルが間に挟まっているから、余は獣の民と戦いには行けぬぞ」
マルドゥクが指摘するが、エルは厳粛そうな顔付きのまめ首を振った。
「さにあらず。神の門に頼みたいのは、イシュタルの足止めよ」
要するに、帝国が獣の民と戦う間、ミーディール王国に後背を突かれたくないのであろう。それくらいなら、わざわざ言いにくる必要もない。言われなくてもやることだ。正直、拍子抜けな気分である。だが、そう言えばこの父親はくそ真面目でくどい性格だった。デイオスやアッシュールのようなだらしなさはない。
「ふん、引き受けてもいいが、対価はあるんだろうな」
「ミズラヒ人の奴隷を千人出そう」
「奴隷か……。それよりも、帝国の言う我らが海のフルム艦隊に、もう少しお目こぼしをしてもらいたいね。黒い大地のネボまでうちの船隊で荷を運べるんだが、そこから先はみなジュデッカ島やゼーナの商人に引き渡すしかないんだ。ネボが、黒い大地の船団を走らせたがっている」
母なるルテル川流域のケメト王国を支配するネボは、マルドゥクの息子である。知恵の神でもあるエルの系列らしく書記の神であり、マルドゥクに従属していた。ネボの権益は自分の権益も同然ゆえの提案である。ノストゥルム海の利権は北岸・東岸の都市に握られており、南岸にも少しは分け前を寄越してほしいところであった。
陸上交易の利権は、スグド商人を握るアーラーン聖王国と、アラム商人を握るミーディール王国に二分されている。
シャームのアンティオキアまで運ばれた荷は、そこからジュデッカ島やゼーナの船隊でノストゥルム海を運ばれていく。かつて、海上の覇権を握っていたのはシャームのタルトゥースを中心に活動するアムル人の商人であったが、後にアシナのヘレーン人商人にその座を譲った。それもいまは替わり、フルム帝国のジュデッカ島とゼーナが二大根拠地となっている。
折角ミタンやチャールキアから運んできた荷が、ノストゥルム海を前にして他の商人に引き渡さなければならないのが業腹なのだ。どうせなら、中抜きされずに直接フルム帝国で売り捌きたい。
「うむ……さすがにそれはの……」
海上交易で儲けているエルはさすがに難色を示したが、マルドゥクが換わりにケメト王国からの穀物を安く提供することを約束すると手を打った。ケメト王国はフルム帝国にとって大切な食糧の供給源であり、安く手に入るなら願ってもないことである。
「いつから始めるのだ」
マルドゥクが開戦の時期を尋ねると、エルは重々しく答えた。
「一ヶ月後だ」
「ふむ、こちらもそれなら間に合いそうだ。任せてくれ」
すでに軍団の招集は始めている。
アムル人の騎兵部隊は、ハナ族のヤフド・リムが三千、ディドニム族のアシリタが二千を率いる。
バーディヤ人の駱駝騎兵は、ムタイル部族が七千、シャマー部族が五千、ジュハイナ部族、アニザ部族、ハーブ部族がそれぞれ三千を数えた。
アガデ人の歩兵部隊が一万、マート・ハルドゥ人の歩兵部隊が二万。
それに、ケメトの女王フィロパトル率いる歩兵軍団が三万参加していた。ヘレーン人の東征のときに、ケメトもヘレーンの一部となっていたが、大王の死後ケメトを領していたヘレーン人の武将が独立して王朝を築き上げている。ゆえに、ケメトの女王ではあるものの、フィロパトルはヘレーンの特徴を色濃く残した美女であった。
これだけの大軍を擁していれば、負ける気遣いはなかった。正面から迎え撃っても十分撃退できる。
エルの意識が去ったアヒメレクを帰すと、ベルシャザルはセミラミスに一月後の出陣を目安に準備を整えるよう念押しした。女祭司はもう一度確認するために退出し、ベルシャザルは一人になる。誰もいなくなると、静寂の中にムシュフシュの呼吸音だけが響いた。
静かになると、ベルシャザルは最後にエルが言い残していった科白が気になった。マルドゥクは気にしてないようだが、人間としては気になる。
「情に流されるな、か……」
知識の神でもあるエルは、ある程度の未来を読むことができる。無論、虚空の記録を書き換えられたりしたら当てることはできないが、エルとネボの二人は誰よりも虚空の記録に詳しいはずだ。その膨大な世界の知識から生じる予測は、予知と言ってもいい精度を誇る。
そのエルが言うのだから、かなりの確率で起こるのだ。ベルシャザルが、情にほだされてイシュタルに敗れ去ると言う未来が。
「イシュタルに情など持ってはいない。となると、アミュティスとジャハンギールに関してであろうな」
兄大好きっ子のアミュティスのことだ。捕虜にしたジャハンギールの助命嘆願をしてくるのは目に見えている。だが、ここは心を鬼にして、禍根を絶たねばならない。エルの予知は精度を高いが、キーになる事象さえ回避すれば、防ぐことができる予知でもある。
「イシュタルの兵力は五属州合わせても精々五万。フルムに抵抗するパルミラと、太陽神を取り戻したいパルタヴァを味方に付けても、七万はいくまい。となれば、普通にやれば勝てる勝負なのだ」
ことに、死を怖れぬバーディヤの駱駝騎兵を揃えられたことは決定的な勝因になるはじであった。ベルシャザルは宙から右掌の中に葡萄酒の入った杯を取り出すと、予知を忘れるかのように一息にそれをあおった。