第十二章 神の門 -2-
淫蕩なる神の門。
魔術と退廃の都と呼ばれるこの巨大都市は、シナル平野を流れるフラート川の両岸に建設されている。煉瓦で造られた巨大な城壁が二重に囲んでいる中を、ちょうど南北に川が貫くような絵である。フラート川の水運を使い、マート・ハルドゥ人の商人は船で世界中と交易を行っていた。チャールキアやミタンとの航路も開拓され、香辛料や象牙などを運んでくる。
北からこの都市に入ろうとしたときに、真っ先に目に入るのが青い釉薬がかけられた煉瓦で造られた巨大な門である。
黄色いタイルで獅子や竜や牡牛とともにイシュタルのレリーフが描かれ、イシュタル門と呼ばれていた。無論、神の門の北からやってくるハラフワティーを意識して造られた門であり、門自体に強力なマルドゥクの呪いが籠められている。
イシュタル門から真っ直ぐ南に行列道路を進むと、天空に浮かぶ巨大な庭園が見えてくる。神の門の空中庭園。五層からなる庭園は、一層ごとに趣向を凝らした作りになっているが、最上層の五層目は、特に明媚な池の畔に東屋が建てられており、そこで休むことができる。
その東屋には、神の門の王ベルシャザルが佇んでいた。柔らかな癖のある黒髪に浅黒い肌をしているが、双眸は七色に輝く不思議な光を放っている。
彼こそが、神々の王マルドゥクの現身たるアガデとシュメルの王であった。
「何か見えるの、ベルシャザル」
東屋の中の寝台に横たわる金髪の少女が、畏れを抱かぬ口調で問うた。ベルシャザルは振り返ると、七色の瞳を愛妻に向けた。王妃アミュティスの無礼を咎める様子はなかった。
「駱駝騎兵だ、アミュティス」
「駱駝? 砂漠の駱駝?」
いたずらっ子のような表情で、ベルシャザルは笑った。
「そうだ。砂漠の駱駝だ。遊牧民を呼び寄せたのだ。ムタイル、シャマー、ジュハイナ……まだまだ来るぞ、砂漠中の部族に声を掛けた。聖戦が始まると」
「ジハード?」
「ふふ、連中の言葉だ。奴らはアガデ語は喋れない。アラム語なら少しはわかるがね。これはバーディヤ語で、神のための聖なる戦いと言う意味さ」
太陽神の封印を手に入れたときから、バーディヤ人を利用することは考えていた。バーディヤ人は、救世主の思想を強く受けることになる民族だ。ならば、太陽神を封印し、その権能をある程度操れるいまなら、バーディヤ人の虚空の記録を操作できると思ったのだ。
狙いはうまく当たり、ベルシャザルの許には半島中からバーディヤ人の兵が集結してきている。
「マート・ハルドゥ人の兵は大した強さではない。イシュタルは神の門の防衛の要は魔術師だと思っているだろう。だが、勝負を決めるのはこの駱駝騎兵さ」
含み笑いをすると、ベルシャザルの七色の瞳が明滅した。膨大な神力が漏れ出し、アミュティスを打つ。王妃はぷいとそっぽを向いた。
「おっと、これは失礼」
神の波動がアミュティスを不快にさせたことに気付くと、ベルシャザルは素直に謝った。人間の意識があるときは、ベルシャザルはいい王であり、いい夫であった。だが、神々の王としての貌が覗くときは、驚くほど酷薄で冷たい。マルドゥクは人を奴隷としか思っていない神であり、その興味は神々との闘争にしかなかった。
「いいわ。それより、イシュタルを手に入れたら、北門に飾りたいのだけれど」
「趣味がよくないね」
「あの淫乱な女神が、兄を誘惑しているのよ」
アミュティスは、ミーディールの王ジャハンギールの妹である。イシュタルとマルドゥクは、表向きは友好的に接している。ジャハンギールの妹と、ベルシャザルとの結婚もその偽装の一つだ。戦いを仕掛けるまでは仲良くしようと言うイシュタルの思惑が透けて見える。
「アミュティスはイシュタルに厳しいな」
「そりゃそうでしょう。イルシュはアーラーンの盾であり、剣であったのよ。何が悲しくてイシュタルの使い走りにならなければならないのかしら」
アミュティスの書き換えられた虚空の記録は、ベルシャザルが戻してある。だから、アミュティスは元の記憶を持っていた。それだけに、イシュタルに対する怒りは強い。
「なんか、怒ったら喉が渇いたわ。飲み物あるかしら」
「冷やした葡萄酒でいいかね」
ベルシャザルは懐ろからハンカチ大の布を取り出すと絨毯の上に敷いた。そして、おもむろに指を鳴らすと、突然その布の上に玻璃の杯に入った葡萄酒が現れる。葡萄酒は氷のように冷えており、暑い午後にはちょうどよかった。
「あなたのこの取り寄せの力は本当に便利ね。これだけで、世の中の凡百の男より価値があるわ」
「お褒めに預かって光栄だよ、奥さん」
ベルシャザルは機嫌よさけにアミュティスと語らっていたが、不意にその七色の瞳が漆黒に染まった。びくるとアミュティスの肩が震える。彼の機嫌を損ねる何かがあったのだ。
「此処には立ち入るなと言わなかったか、セミラミス」
空中から現れたのは、黒い神官衣を纏った若い少女である。黒髪に黒い瞳。肌は浅黒く、背はかなり低い。そして、背の低さに似つかわしくない長い杖を右手に持っていた。
「火急の用事であったのです」
現れたのがセミラミスだと知ると、王妃の機嫌も急速に悪化した。セミラミスに対しては、かなり冷ややかな視線を送っている。セミラミスがさりげなく王を見るときの熱い視線に気がつけば当然であろう。
「なんだ、言ってみろ」
「は、大路にてミズラヒ人の祭司が説法を行っております。ミズラヒの奴隷が集まり、不穏な状況であります」
「アヒメレクか、厄介なやつめ」
ミズラヒ人の国は、すでにない。マルドゥクが、ネボと協力して滅ぼしてしまった。そのときにかなりのミズラヒ人を奴隷として連れてきている。中には解放された者もいるが、未だ神の門で奴隷として働かされているミズラヒ人は多い。
「まあ、よい。宮殿の謁見の間に連れてこい。どうせ、余に会うのが目的だ」
「宮殿へ……よいのですか?」
「仕方あるまい。アヒメレクを通して父なる神とやらが何か言いにきたのだろう」
ミズラヒ人の神はエル、すなわちエンキである。エンキはマルドゥクの父であり、かつてエンリルと神々の王を競い合った力の持ち主だ。すでに老いてかなりの力を失っているが、知識と技術と魔術に関してはかなりの域に達している。話すくらいはしてもいい相手であった。
「と、言うわけだ。少し宮殿に行ってくるよ、アミュティス」
「お仕事は仕方ありませんが、あの女と一緒と言うのが腹立たしいですわ」
セミラミスの前なので、アミュティスは王に甘えた口調をやめ、つんとしてそっぽを向いた。黒衣の女祭司は慇懃に頭を下げる。ベルシャザルはそれには構わす、東屋を出ると宙に浮遊して目の前の宮殿へと向かった。
「さて、エルが何の用だか。イシュタルとの戦いを前にして、余計な首を突っ込んでくるわけではあるまいな」
ベルシャザルの瞳が、黒から七色の輝きに戻り、そしてそれは金色の渦に変わる。
マルドゥクの意識が降りてきたベルシャザルは、急に神力が膨れ上がり、大気を震わせた。後ろをついて飛行するセミラミスは、危うく意識を失って落下するところであった。
ベルシャザルの回りに七色の風がまといつき、護るように旋回し始める。マルドゥクの権能の一つであり、強大な武器でもあった。