第十二章 神の門 -1-
ミーディール王国。
カラト・シャルカトに都を構え、ミーディール、アディアバネ、アードゥルバード、アスーレスタン、ジャズィーラの五つの属州を押さえる大国である。
西のシャームや北のウラルトゥには、フルム帝国の属州が置かれており、常に緊張を孕んでいる。フルムの軍団は、かつてのヘレーンの軍団の流れを組んでおり、職業軍人として高い練度を誇っていた。伝統的には重装歩兵が強力であるが、遊牧民の傭兵を入れ、騎馬隊も揃えている。特にウラルトゥの騎馬傭兵は良質であり、遊牧民の侵攻に対抗する大きな力となっていた。
南は神の門と隣接しており、こちらも仲はよろしくない。
神の門はマート・ハルドゥ人の国家であるが、昔からマート・ハルドゥ人が覇権を握っていたわけではない。アガデとシュメルの王と言うのが神の門の王号であることからもわかるように、神の門の王国は北のアガデ地方と南のシュメル地方から成っている。
初期はアガデとシュメルの諸都市による権力の闘争が行われていたが、アガデ帝国が成立し、支配域を広げることで終息を見る。だが、後にアガデ帝国が崩壊すると、傭兵として入り込んでいたシャームのアムル人が軍事力を背景に神の門の実権を握る。
アムル人を撃ち破ったのが北方から来た遊牧民のカッシュ人であり、一時期強盛を誇るが、東方のエラム人に負けて追い払われた。追われたカッシュ人が行き着いた先がムグール高原であり、月の民の母体となった。
エラム人は古代のザグロス山脈周辺を支配していた民族であるが、シュメルやアガデの神々とは別系統の神を信仰しており、山岳を地盤にしているため非常に強力な兵を養っていた。パールサ人がザグロス山脈に侵入すると隅に追いやられたが、神の門のマルドゥク神像を奪ったことすらある強力な国家であった。
カラト・シャルカトを中心に勢力を広げたアッシュール人が、エラム人を破ってアッシュール帝国を築くと、神の門はアッシュール神、すなわちエンリルの支配下に置かれた。
そのアッシュール帝国を破ったのが、アッシュールの将軍位についていたマート・ハルドゥ人のナポニドゥスである。当時のミーディール王国と協力し、イシュクザーヤ騎馬隊を抱えていたアッシュール帝国の軍団を撃破した。
マルドゥクがアッシュールから神々の王の称号を奪ったのはこのときである。ルテル川流域の黒い大地を支配する神ネボと、ミーディール王国の女神ハラフワティーと協力し、アッシュールを西方のリュディア王国に追いやった。ハラフワティーは元々アッシュールの派閥であったが、気紛れな女神は戦いのためなら裏切りも躊躇わなかった。
アッシュールの派閥であった月神シンも、ハニガルバトにあった古ミタン王国崩壊のときに派閥から離れ、パールサ人を連れてザグロス山脈に入った。マルドゥクがアッシュールを破ったときには、すでに袂を分かっていたのである。
マート・ハルドゥ人の王国は、その後ヘレーン人がミーディール王国を滅ぼしたときも生き残り、太陽神ミフルがパルタヴァ人を連れて大陸を席巻したときも負けなかった。
神々の王の威光が他国の軍団を寄せ付けなかったのである。
その旧き王国とカラト・シャルカトで睨み合い続けるのは、ミーディール王国にとっても負担は大きい。フルム帝国に戦力が割けないのは無論であるが、平穏であった東部国境も、パルタヴァ王国がアーラーン聖王国に駆逐され、油断できない状況になっている。
ミーディール王国の軍の主力となるのは、最大派閥のブザ部族による歩兵、弓兵部隊である。次に、パルタケネ部族とブディニ部族による騎兵部隊が挙げられる。この二部族は牧畜を生業とする遊牧民であり、馬術はお手のものである。
また、アリザント家は本来ミーディールの王族であるが、ハラフワティーがパールサ人のイルシュ部族の長ジャハンギールを王位に付けてしまったため、属州の総督の地位に甘んじている。軍の指揮官は大体このアリザント家から出るが、ジャハンギールは総指揮官の座も譲らず、しかも全ての戦いに勝利した。ハラフワティーの威光とジャハンギールの実力に、いまのところアリザント家は大人しく従わざるを得ない。
まして、祭祀を司るマゴイ部族は女神の意向を最も受ける立場にある。ジャハンギールに逆らう心配はない。
ハラフワティーは、元来水と豊穣の女神である。彼女が祝福すれば、作物は豊作を約束されている。だが、ミーディール王国で農業に従事しているのは、基本的に農奴である。
ミーディール人は政治と軍事と祭祀にしか関わらない。ハラフワティーは、もともとセム系民族の女神イシュタルであるから、セム系の商人であるアラム人などにも優しかった。だが、イシュクザーヤ人やサルマート人、トゥルヤ人などには厳しく、天空神デイオス、すなわちディヤウス・ピトリ、またはアヌを信仰するヘレーン人、フルム人、創造神エル、すなわちエンキを信仰するミズラヒ人にも甘い顔は見せない。これらの異教徒を戦争で捕虜にすると、ハラフワティーは悉く農奴に落とした。
大量の農奴による食糧の供給と、アラム人商人による交易の利潤で、ミーディール王国の経済は安定していた。
軍団はいつでも動かせる状態にあったが、ハラフワティーは意外と慎重であった。血と悦楽の女神でもあるハラフワティーではあるが、見境なしに戦うほど愚かでもない。
女神が神官に指示をして行わせていたのは、パンノニアからトラキア周辺に侵出してきた獣の民との交渉である。西進の過程でサルマート人、ゴート人を支配下に収めた獣の民は、恐るべき津波となって大陸の西に侵入していた。
ハラフワティーは、その獣の民をウラルトゥに侵攻させようとしていた。フルム帝国の有力な傭兵の供給先であるウラルトゥを掻き乱せば、帝国はこちらに構っている余裕がなくなる。神の門と対決するのは、それからでいい。
「孔雀の王に対する備えはいいのか?」
パルタヴァを破った聖王国が、西に軍を進めてくる可能性があった。ハラフワティーは、アルダヴァーンとアフシュワルを使った聖王国包囲網の話をして、心配は無用と哄笑する。アルダヴァーンは太陽神の使徒では随一の男であり、簡単にやられる男ではなかった。
だが、そのハラフワティー苦心の包囲網が、簡単に破られた。ナーヒード率いる聖王国軍は、アルダヴァーン指揮下の連合軍を破ると、スグディアナに進駐していたアフシュワルのヘテル軍団も一蹴したのである。
これには、ハラフワティーも苦虫を噛み潰した顔にならざるを得ない。
「忌々しい小娘よのう。仕方がない、エラムでも動かして時間を稼ぐかの」
パールサとスシアナを領するエラム王国は、大した力はないが、アーラーンの時間稼ぎくらいはできるだろう。
獣の民との交渉を急ぐように命令を発すると、ハラフワティーは窓から吹いてくる風に気持ち良さそうに目を細めた。