第十一章 マラカンドの戦い -1-
ブハラの温厚な老太守イルヤースの死を聞かされた。
ただでさえ沈んでいた気持ちが一層重くなり、アナスは羊肉の串を皿の上に戻した。今日はどうにも食欲もない。
「ア、アナスさんが食べ物を残すなんて……」
フーリがおののいていたが、怒る気にもなれず夕食を片付けさせた。
「元気がないようだな」
ナーヒードに心配されると、さすがに邪険にもできない。アナスは軽く首を振った。
「大丈夫、ちょっと感傷に耽っただけです」
「感傷に? 珍しいな」
ナーヒードの言う通り、珍しいことかもしれなかった。今まで数多くの人間を殺してきたし、それに心を動かされることもなかったアナスである。だが、アルダヴァーンとシーリーンの主従を二人とも手にかけたせいであろうか、それとも最後にアルダヴァーンの話を聞いてしまったせいであろうか。
今日はやけに感傷的になってしまう。
「とにかく、スクディアナ軍が敗れたことで、キシュとマイムルグの二都市はヘテルに押さえられている。ミーラーンと月の民の太守たちは無事だが、兵は大分逃げだしていて、戦いにならないらしい」
フェルガナとタシュケントからの援軍も、ミーラーンの敗北を聞くと引き返したらしい。ミーラーンと太守たちは、マラカンドで逃げ去った兵士たちを呼び戻して再編しようとしていたが、あまり進んでいないようであった。
「急がねば今度はミーラーンが危ない。できるだけ急いでマラカンドへ行かねばな」
ヘテルの軍はイルヤースの足止めもあってまだマイムルグ近郊に留まっているらしい。スグディアナ軍から逃亡した兵がかなりヘテルに吸収された模様であり、その兵力は膨れ上がっていると見るべきであろう。カーブル侯カドフィセスも合流するはずだ。
だが、こちらもトミュリスとヴィマタクトを降し兵力を増強させており、ミーラーンと合流すれば十分戦えるはずであった。
「イルヤース卿は、味方を逃がすために殿軍を勤めたのね」
「そうだ。高潔な老人だった。引き連れて行った一族は、ほとんど最後まで戦って討ち死にしたそうだ。ブハラに残っているのは、幼い者だけだと言う話だ。保護はわたしがしなければなるまい」
本来サカ人はそこまで義理堅い者たちではない。だが、光明神の教えに教化されたイルヤースの一族は、特別に文明的であった。そうでなければ、ミーラーンを逃がすための殿軍など買って出ない。まず、自分たちが逃亡するのが最優先である。遊牧民はそれほど人種にこだわる性質ではなく、強力な指導者に従う傾向にある。ヘテルのアフシュワルは極めて強力な指導者であり、バクトラを奪い、月の民諸侯を服属させ、いまスグディアナの連合軍すら撃ち破った。遊牧民たちがアフシュワルに従うのも自然な流れである。
ナーヒードはアナスとフーリの前に玻璃の杯を置くと、葡萄酒を注いだ。そして、自分の杯を掲げる。
「イルヤースに」
アナスはのろのろと顔を上げると、杯を手に取った。普段酒は飲まないアナスであるが、故人を偲ぶのに酒を酌み交わすのも悪くはない気がした。もともとパールサ人はよく酒を飲む人種であるので、ナーヒードは酒豪である。
「高潔な老人に」
ナーヒードとフーリと杯を合わせると、アナスは葡萄酒をあおった。ナーヒードの葡萄酒であるから、上等なものであるのは間違いない。だが、甘いはずの葡萄酒が、何故かほろ苦かった。
「アナスさん、わたしまで一ヶ月掃除当番はひどいですう」
酔いが回ったフーリがアナスを揺すぶる。アナスは苦笑すると、フーリの手を外して逃れた。
「もう、わかったよ。次の戦いで、アルナワーズ殿下のお守りをしっかりやったら免除するわ」
アナスに内緒でアルナワーズの従軍を了承したフーリには、アルナワーズと同じ罰を命じていた。ナーヒードを救う手柄を立てた以上この先も連れていかざるを得ないが、それならばせめてその生命は守らねばならない。
アルナワーズは、ナーヒードとの結び付きでカウィの光輪の能力の一部を行使できるようであるが、それでも迂闊に前線に出すわけにはいかない。
「ほんとですかー。ようし、フーリはやりますよ!」
極めて単純なフーリはやる気を出して燃え上がっている。アナスはその姿に慰められながら杯を重ねた。
翌朝、聖王国軍はスグド商人が再び懸けた舟橋を渡り、スグディアナに入った。
キシュからマラカンドまでは約七パラサング(約四十キロメートル)。騎馬なら半日でついてしまう。チャルジョウからマラカンドまでは約五十パラサング(約二百八十キロメートル)。普通に行けば騎馬でも三日はかかる。
それゆえ、ナーヒードはファルザームとアナスを先にマラカンドに派遣することにした。鷹に変化して飛ぶファルザームなら一時間でマラカンドに到達できるし、アナスもその速度についていけるのだ。
街道を東へと駆ける聖王国軍を眼下に見ながら、ファルザームとアナスは舞い上がる。速度を出して飛ぶなら鳥の形態の方が速いので、アナスも小さな火の鳥と化してファルザームの鷹の後を追いかける。
途中、ブハラの街並みが見えてくる。再び老太守の顔が思い浮かぶが、アナスは気持ちを切り替えて飛ぶのに集中した。下手に集中を乱すと火の鳥が解ける。アナスはまだ魔術の運用の技倆に関してはファルザームには及ばないのだ。
小一時間で青の都マラカンドの美しい尖塔が視界に入ってきた。市内は避難しようとする商人や奴隷でごった返している。城外には敗走してきた兵士たちが駐留していたが、二千ほどの数しかいないように感じられた。あの数では野戦では立ち向かえまい。
二人は太守の宮殿へと舞い降りた。警護の騎士たちが駆け付けるが、ファルザームとアナスが人身に戻ると警戒を解く。前回の訪問で、二人の顔は覚えられているのだ。
早速ミーラーンの許に二人は連れて行かれる。マラカンドの太守は、若干疲れた顔をしていたが、まだその顔には覇気があった。
「済まんな、大祭司長。アフシュワルに見事にやられたわ」
ミーラーンは太守たちを集めてマラカンドに籠城するか放棄するかを検討中のようであった。放棄すればマラカンドは掠奪され、業火に沈むかもしれない。アフシュワルがバクトラやキシュを手に入れたときに掠奪は行っていないが、遊牧民の習性としては掠奪する方が普通なのだ。
「三日耐えよとナーヒード陛下は仰せじゃ。三日後に必ず助けに来ると。陛下はアルダヴァーンを討ち取り、すでにこちらに向かっておられる」
「三日か。それくらいならば、城にこもって、何とか守り抜けよう」
ミーラーンが頷くと、キシュの太守クドラトも力強く頷いた。他の二人の月の民の太守は一時放棄を勧めていたが、クドラトは徹底抗戦を叫んでいたのである。
「やはり、ナーヒード陛下はスグディアナを見捨てはしなかったな。翡翠の女王は信義を重んじるとミーラーンが言った通りだ」
三日月を大切にするクドラトは、どうしてもヘテルに従い三日月を棄てた月の民諸侯を許すことはできなかった。
結果として、場は一気に籠城して抗戦の流れへと傾いたのである。