第十章 ヘテルの覇王 -9-
ナーヒードはフーリの二百五十騎とともに後方に下がった。シーリーンの千騎を相手にするのは、アナスと親衛隊二百五十騎である。すでにアナスは炎翼を広げて飛翔し、馬は乗り捨てているので、その動きについていくのは親衛隊の騎士たちにはなかなか大変なことであった。
奇襲を阻止されたシーリーンは、標的をアナスに変えて弓を構える。彼女の周囲には、十人ほどの護衛がついていたが、彼らは一斉に剣を構えた。その刃は黒く、カマールの暗殺者が使っていた毒と同じ臭いがする。
「蜃気楼」
シーリーンが真言を唱えると、彼らの姿が揺らめいて消えていく。アナスは目を見張ったが、姿を見ることはできない。これで気配を断たれたらまるで居場所がつかめない。
「でもね」
アナスは慌てなかった。微動だにせず、じっと剣を構える。
「あたしの神焔の領域を越えてこられるとは、思わないことね」
突然、アナスの左後ろで矢が燃え上がり、燃え尽きる。シーリーンが放ったものであろう。自分から離れた矢まで隠せるというのは驚きだ。続いて、四方から殺到した刺客たちが一斉に火だるまになり、転げまわる間もなく燃え尽きた。神焔の領域の炎は骨も残らず金属をも溶かす。
刺客たちの一人が怯えからか息を呑み、気配が漏れた。アナスの炎翼が伸び、逃れようとした男を包み込む。絶叫ととともに男は燃え上がった。炎翼の炎の温度はそこまで高くはないので、一瞬では燃え尽きない。転げまわって火を消そうとしたがかなわず、男は動かなくなった。
「何人で来ようが無駄よ。あたしの神焔の領域は破れない」
油断なくアナスは剣を構える。だが、敵も恐れをなしたか、それきり領域の中に足を踏み入れてこない。神焔の領域は神速と同じく維持にかなり負担がかかるので、アナスの額にも汗が流れる。
しかし、動きがなかった。あまりの静寂にアナスが疑問を抱き始めたころ、後方のナーヒードの周囲で血しぶきと絶叫が上がる。ナーヒードの周囲を固める騎士たちがいきなり斬り裂かれたのだ。
何処から現れたのかわからぬ三人の男が、毒刃で騎士を斬り伏せていた。慌てて護衛の騎士がその三人の男に向かう。シーリーンは、その空いた穴に向かって矢を放った。狙いは、ナーヒードただ一人。かすり傷を負わせれば殺すことができる。
だが、そのとき、再び面を伏せた華奢な騎士が飛び出し、見えない矢を斬り落とした。騎士はシーリーンに剣を向けると、鈴のような声で叫んだ。
「慮外者め! 姉様に傷ひとつでも負わせるものか!」
きっと騎士が顔を上げる。その翡翠色の双眸は、淡い輝きをもってシーリーンを射抜く。
「真実の目! カウィの光輪の保持者でもないのに、どうして」
「わたしは、姉様の騎士だあっ!」
駆けつけたアナスは、剣を構えるアルナワーズを見て嘆息した。あれほど連れて行かないと言ったのに、何故かお転婆王女が紛れ込んできている。王女一人で出来るはずがない。確実にフーリが協力しているはずであった。
「フーリぃ、後でお話しがあるわよう、そこの言いつけを守らない隊員もね!」
アナスは炎翼から炎を噴き出すと、アルナワーズが剣を向けている先に放った。高温に蜃気楼が揺らめき、シーリーンの姿が現れる。見破られたことを悟ったシーリーンは、風で加速すると一気にナーヒードの懐に飛び込もうとした。
「この距離なら、あたしより速く動くのは不可能よ」
神速を発動したアナスは、空を駆けてシーリーンの心臓に剣を突き立てた。いきなり胸から生えた刃に、シーリーンは理解が追い付かず絶句し、そして急速に目から光が失われた。
「アルダヴァーンさま…」
最後に一人言のように呟くと、シーリーンは動かなくなった。アナスはほっと息を吐くと、この手強い女性が最期に何を見ていたのか束の間考えた。
シーリーンが討たれると、ナーヒードを狙って突っ込んできていたスーレーン騎兵も遁走を始めた。フーリが親衛隊に適当に追撃させたが、すぐに撤収させる。アルダヴァーンの手札もこれで尽きたはずであるが、警戒はしておいた方がいい。
「えーっと、将軍…」
居心地悪そうにアルナワーズがアナスの前に進み出てきた。アナスはお転婆王女の額を指で弾くと、厳しい声で叱責した。
「命令違反は宿舎の掃除一か月だ。帰ったら覚悟しておけよ」
「ええっ」
アルナワーズは唇を尖らせた。アナスは謹厳な顔を綻ばせると、麾下の兵に指示を出し始めた。
アルダヴァーンの作戦では、シーリーンの襲撃は失敗の可能性はほとんどないものであった。カマールのメルヴ騎兵でアナスを引き付ければ、ナーヒードの護衛はぽっかりと空く。そこを最も信頼するシーリーンが奇襲するのだ。失敗するはずがなかった。
アルダヴァーンの誤算は、カマールの部隊がアナスを抑えきれなかったことと、シーリーンの蜃気楼を見破ったアルナワーズの真実の目の存在であろう。ヒシャームとエルギーザを自らが抑え、ロスタムまでナーヒードから引き剥がしたのだ。
だが、それだけの布石がひっくり返された。
「火炎の精霊か…真紅の星こそ、光明神のもう一つの面、裁きの神の現身なのかな」
中央のトミュリスがシャタハートに崩され、ナーヒードを討てなかった時点でこの戦いは負けであった。指揮官として、アルダヴァーンにははっきりとそれがわかった。だが、パルタヴァの軍事を司る者として、二度の敗北は許されない。彼は英雄であり、パルタヴァに勝利をもたらす存在でなければならなかった。
「この太陽の剣には、太陽神の力は欠片しか封じられていないが…」
砂煙を上げながら小山のような巨体の騎士が近付いてくる。黒馬ラクシュの前に立ち塞がる馬は、恐慌にかられて逃げ出していく。逃げ遅れた騎士は、獅子断ちの神剣の前に両断された。
「シーリーンを殺された仇敵はあの男で晴らさせてもらおうか」
アルダヴァーンが太陽の剣を掲げると、剣から黄金の輝きが溢れ出す。アルダヴァーンの靴から白い翼が生じ、ふわりと空に浮かび上がった。
「面妖な術を!」
ロスタムが剣を振るうと、虚空から輝く盾が現れそれを受け止めた。自立する盾がアルダヴァーンの周囲を旋回し、自動で攻撃を防ぐ。獅子断ちの神剣の威力を軽々と受け止める輝く盾の力に、ロスタムも目を見張る。
「ロスタム、本物の神の力と言うものを味わってみるんだね」
太陽の剣から無数の光条が発し、ロスタムを斬り裂いた。ロスタムは無表情のまま剣を振るうが、再び輝く盾に受け止められる。
「太陽神の輝く盾を、そんな力任せの攻撃で崩せるものか!」
アルダヴァーンは嘲笑った。