第十章 ヘテルの覇王 -8-
戦況は未だ好転していないふ。中央はシャタハートがトミュリスを蹴散らしているが、敵の数が多いため突破しきれていない。左右両翼は互角の戦いを見せており、ヒシャームもアルシャカンに止められている。
ナーヒードはもう一枚札を切ることにした。ロスタムに合図を出すと、獅子侯の二百五十騎が動き出す。大外を回りながらロスタムはアルダヴァーン目掛けて進んでいった。
「アルダヴァーンが手強いのはむろんだが、月の民の諸侯の強さも並外れているな。オルドヴァイとハシュヤールがあそこまで苦戦するとは」
ナーヒードが騎兵将軍であったとき、大隊長の中で最も才能を感じていたのがこの二人である。その二人が増援を受けても押すことができない相手など、そうそういるとも思えなかったのだが、世の中優秀な部隊はいるものだ。
「メルヴの騎兵が出てくるわ!」
アナスの声に、ナーヒードは視線を彼方に移した。後方に控えていたカマールが動き始めている。メルヴの騎兵は遊牧民の傭兵が主体で、侮ることはできない。それが何処に向かうのか。
「カマールめ、こちらに来るつもりだな」
ナーヒードの周囲に緊張が走る。ロスタムを出したため、ナーヒードを護るのは親衛隊五百騎のみだ。二千騎を数えるカマールの部隊を受けて、ナーヒードを護り切れるだろうか。
「ア、アナスさん…」
「あたしがいるから大丈夫よ、フーリ。ナーヒードさまの側を離れないようにね」
メルヴの騎馬隊が砂塵を巻き上げて接近してくる。アナスは弓を手に取ると、矢継ぎ早に矢を放った。爆炎を付与された矢が騎馬隊の中に撃ち込まれ、激しい爆発を引き起こす。混乱するメルヴ騎兵を前に、アナスは二百五十騎を引き連れ、突撃を命じた。
「行くわよ!」
アナスの命令に、親衛隊の騎士が喚声を上げる。駆け始める親衛隊に向けて、メルヴ騎兵から一斉に矢が放たれる。アナスは剣から火柱を発すると、飛来する矢を巻き込むように動かして焼き払った。
「所詮は傭兵!」
メルヴ騎兵の隊列は揃っていない。遊牧民の個々の技倆に任せた突撃だ。アナスの鍛えた親衛隊が小さく纏まって突入すると、太刀打ちできずに弾き飛ばされる。
「あの女を殺せ!」
後方からカマールがアナスを指差して叫んだ。カマールとアナスの間には、分厚い兵士の壁がある。アナスは爆炎で付近の兵士を一掃すると、炎翼を大きく広げた。
「死にたくなかったら、逃げることを勧めるわ!」
炎翼から左右に火柱を生き物のように噴き出すと、殺到する兵士が火だるまになって転げ回る。死の炎を撒き散らしながら駆けるアナスを前にして、傭兵たちは怯えて道を空けた。
「カマール! 売られた喧嘩の代金は、あたしの炎で支払うわ!」
「うちは現金取引しかしてないんだ!」
カマールの前にいた精鋭の傭兵たちが抜剣する。アナスは自身と馬に神速を発動して、一瞬でその精鋭の傭兵たちを斬り伏せた。瞬きしている間に目の前の護衛が血しぶきを上げて倒れたのを見て、カマールの目に怯えが走った。
「その気配は覚えがあるわ!」
カマールの影から、湧き出るように黒い剣が伸びてきた。アナスは神速を再度発動すると、影から現れた黒衣の男の首を刎ねる。男の手から落ちた黒い剣は、大地に不気味な黒い染みを作った。毒刃であろう。
「マラカンドへの道中、ずっと付け回してくれてありがとう。でも、暗殺者が姿を見せたら負けよ!」
切り札を失ったカマールは慌てて逃げようとするが、アナスは炎翼を羽ばたかせ馬から飛び上がると、カマールの前に回り込んだ。
「く、くくく…わたしに釣られてナーヒードの側を離れてよかったのかな、火の悪魔め…」
「寝言は夜に言うのね!」
神速の剣でカマールの首を刎ねる。討ち取りを叫ぶと、メルヴの傭兵たちは我先にと逃げ始めた。金を払ってくれる雇用主の死で、戦闘を継続する意味がなくなったのだ。無意味な追撃はやめさせ、アナスは後ろを振り返った。カマールの死に際の科白が気になったのだ。
ナーヒードはフーリの二百五十騎に囲まれ、無事であった。アナスはほっとため息を吐き、そして少し腹立たしく思った。あんな戯言に心配させられたのが悔しかったのだ。
「カマールめ、もう少し痛め付けてから斬るべきだったかしら…」
麾下の二百五十騎に撤収の命令を出そうとしたところで、アナスはナーヒードの本隊の隣にいきなり湧き出るように現れた騎馬隊を見つけ、目を見開いた。
「フーリ、左…!」
完全に虚を突かれ、親衛隊の騎士がその騎馬隊の突撃に呑み込まれる。先頭を駆ける女騎士は、アルダヴァーンの副官のシーリーンであった。
「や、ら、せるかあっ!」
アナスは炎翼と神速を同時に発動し、空を駆けてシーリーンへと向かう。だが、距離が離れ過ぎていた。シーリーンがゆっくりと弓を構え、ナーヒードへ向けて矢を放つ。
のろのろと矢が飛んで行く。アナスは最大限の神速を行使し、懸命に飛翔するが、長距離だとどうしても時間の流れを遅くし続けられない。僅かに届かない、それがはっきりとわかる。
「だめ、届かない、フーリ、フーリ、お願い!」
ナーヒードの隣には、フーリが控えているはずだ。アナスは願望を込めてフーリを見る。だが、フーリは咄嗟の反応が取れるほど武芸の素養はなかった。むしろ、ナーヒードが剣を抜き、矢に反応しようとしている。
そのとき、ゆっくりとナーヒードと矢の間に騎士が一人飛び込んできた。ほっそりとした小柄な騎士で、アナスはその姿に見覚えがなかった。鉄製の兜を目深くかぶり、顔がわからない。
騎士の剣が、飛来する矢を斬り払った。アナスはそれを確認すると、シーリーンの前に降下し、炎翼を敵騎兵に向けて吹き付ける。
シーリーンは剣を一閃し、風を巻き上げて炎を上空に逸らした。
「火の悪魔、貴女がいない間に処理する予定だったのに。どうやってあそこからこの短時間で舞い戻ってこれるのかしら」
「貴女こそ何処に兵を潜ませていたのか、全く接近に気付かなかったわ。ヒルカの目を誤魔化すなんて、どういう魔術かしら」
アナスは炎翼を広げ、シーリーンの千騎が近寄ってくるのを防いだ。炎の壁を前にシーリーンの騎兵は立ち往生し、その間にアナスを追って二百五十騎の部下が追い付いてくる。
「危険な力。孔雀の魔王に与するだけでも排除に値するのに、その力はアルダヴァーンさまのためにならない。此処で始末させてもらいます」
「こっちの科白よ!」
アナスは小袋から石を取り出すと、爆炎を付与して放り投げる。シーリーンは突風を起こしてその石を吹き飛ばした。あらぬところに吹き飛ばされた石が爆発を起こし、黒煙が沸き上がる。
アナスは剣を抜くと、大地を蹴ってシーリーンに飛びかかった。




