第十章 ヘテルの覇王 -3-
ヘテルの軍旗は前がかりになっている。
相手の戦意が高揚しているのを見てとったミーラーンは、明日の戦いが避けられないことを悟った。やはり、援軍は間に合いそうにない。
スグディアナ軍の編成は、中軍の前段にブハラのサカ騎兵二千騎を置き、後段にマラカンドのスグド騎兵二千騎が控える。右翼の前段にキシュの月の民騎兵千騎、後段にマイムルグの月の民騎兵千騎を置く、左翼はクシャニアの月の民騎兵千騎である。
標準装備としてみな弓を持っているが、副武器として月の民は剣を持ち、サカ人は戦棍を用意している。戦棍はアス人の重装槍騎兵対策であり、イルヤースの用意のよさを窺わせた。スグド人は槍を携え、軽装槍騎兵で最後の打撃を与える役目を担う。
右翼が左翼に比べて厚いのは、騎射は馬上で左を向いて行うからである。中軍前段がぶつかっている間に、右翼から騎射の波状攻撃を仕掛け、崩れるところに回り込んだスグド槍騎兵で突撃を敢行する。ミーラーンが頭で描いた戦術はそんなところである。
相手の布陣を見ると、中軍前衛が金竜旗、ヘテル王の三男ミヒラクラ率いる装甲槍騎兵千騎である。後段に金翅鳥旗、ヘテル王アフシュワル率いる軽装槍騎兵二千騎。
右翼前段に青竜旗、ヘテル王の長男シェンギラの軽装弓騎兵千騎。後段に赤竜旗、ヘテル王の次男トラマーナの軽装弓騎兵千騎。
左翼前段に有翼の聖霊の旗、バダフシャン侯爵フヴィシカ率いる軽装弓騎兵千騎。後段に有翼の鷲獅子の旗、ティルミド侯爵クジュラ率いる軽装弓騎兵千騎が並んでいる。
アフシュワルも右翼に信頼する息子二人の部隊を置いた。右翼を主攻にし、敵を崩していくのは、どちらも同じである。
戦端の口火を切ったのは、スグディアナ軍である。右翼のクドラトと中軍のイルヤースが前進を始める。クドラトの動きに合わせてフヴィシカが前進し、軽装弓騎兵同士の撃ち合いが起こる。互いに月の民であり、手の内を知る相手であるが、士気の旺盛なクドラトの方が優勢になり、有翼の聖霊の旗が押し込まれた。
中軍の前衛がぶつかると、武器の長さの有利さからヘテルの装甲槍騎兵が激しくサカ人の騎兵部隊に食い込んだ。鉄の小札を重ねた鎧は容易に剣を弾くので、ミヒラクラの部下は思い切って速度を付けて突っ込んでくる。
だが、その巧みな乗馬術で突撃をいなしたサカ人たちは、回り込んで戦棍を振るった。剣の刃を弾く鉄の鎧も、鈍器の衝撃は逃がせない。意外な抵抗を食らい、中軍前衛の戦いは膠着した。
左翼に青竜旗が接近してくる。ヘテルの精鋭軽装弓騎兵であるが、クシャニアの月の民も騎射の技倆は負けてはいない。馬を走らせ、互いに矢を飛ばし合う。
ミーラーンは、右翼の後段に前進を命令する。マイムルグの部隊がバダフシャン侯の麾下に襲い掛かろうとするが、そこにティルミド侯が割って入り、右翼は再び拮抗する。
中軍前段は、ミヒラクラが予想外に押され出していた。サカ人の騎兵は馬術の練度も高く、数も装甲槍騎兵の二倍いる。本来ならそれでも押し切るのだが、剣ではなく戦棍を手にしているのが厄介である。鎧の防御を突き抜ける重い衝撃に、装甲槍騎兵も苦戦を免れない。
アフシュワルは決め手となるべき赤竜旗を何処に撃ち込むか迷った。このままミヒラクラが崩れるようだと、敵主力のブハラのサカ騎兵が自由になり、戦線が崩壊しかねない。
だが、アフシュワルは右翼後段を、シェンギラの応援に送った。それは、ミヒラクラへの信頼であった。ヘテル王は三男の軍才を愛していたし、この状況も自力で切り抜けると判断したのである。
シェンギラとブラトの部隊は、互いに矢を射尽くし、剣を抜いて渡り合っていた。押し合いは互角であったが、トラマーナの千騎が騎射を仕掛けて来ると、一気に戦況はシェンギラに傾いた。
いま左翼が崩れると、そのまま敗北が決定する。ミーラーンは決断し、自らのスグド騎兵を動かした。
決戦用と位置付けていた軽装槍騎兵二千が、トラマーナを蹂躙した。矢を撃ち尽くしたトラマーナは、剣に武器を変えるタイミングでミーラーンの突撃を許し、為すすべもなく崩れた。
シェンギラはブラトのクシャニア騎兵を追い込んでいるところであったが、トラマーナを追い払ったミーラーンの突撃を横腹に食らい、流れを持っていかれる。
右翼の子供たちがミーラーンに蹴散らされるのを、アフシュワルは黙って見てはいられなかった。金翅鳥が動き始めると、戦場に閧の声が上がる。ついに、覇王自らの出陣である。
アフシュワルが疾駆して来るのを見て、ミーラーンもまた馬を駆った。両軍の軽装槍騎兵が真正面からぶつかり合い、互いに突き抜けた。ややミーラーンの方が撃ち落とされた数が多い。二つの部隊を蹴散らした疲れもあった。
アフシュワルとミーラーンは、幾度となく交差した。形勢はミーラーンに悪いはずであったが、スグド騎兵は小さくまとまり、崩れはしない。
ミーラーンは、サカ人たちが正面を撃ち破ることに期待を掛けていたが、劣勢のミヒラクラもよく粘りなかなか崩れない。
右翼の月の民同士の衝突は決定打を欠き、泥沼の消耗戦となっている。
「結局、あの金翅鳥を叩き落とすしかないわ」
ミーラーンは再度の突撃を命じ、馬を駆った。金翅鳥の旗が近付いてくる。忌々しい旗だ。ミーラーンの旗は、青地に白い満月である。青はマラカンドを象徴する色であり、満月は月の民諸侯を束ねる者としての意味がある。三日月を束ねる者として、ミーラーンはアフシュワルに負けるわけにはいかなかった。
苛烈な突撃に、アス人の槍騎兵が蹴散らされる。ミーラーンはもう少しで金翅鳥の旗に届きそうであったが、さすがに旗回りは防備が堅く突き崩せない。仕方なく、柔らかいところに逸れて抜けていく。
「くそ、もう一度だ!」
再び部隊を小さくまとめる。アフシュワルの部隊は少しずつ綻んで来ている。あと、二、三撃で金翅鳥まで届きそうなのだ。此処でイルヤースがミヒラクラを突き抜ければ、と歯噛みをするが、中軍の装甲槍騎兵は未だに健在である。
再度、アフシュワルの槍騎兵とぶつかり合う。激しい衝突の最中、いきなりミーラーンのスグド騎兵は横からの打撃を受けた。
赤竜の旗。
ミーラーンの視界に、トラマーナの旗が映る。一度崩れた部隊を再編し、アフシュワルの次男が斬り込んで来たのだ。
それが決定打になった。
後続のスグド騎兵が崩れるのを見て、ミーラーンは敗北を悟った。馬首を翻すと、旗を振って退却の戦鼓を打たせる。
「討ち取れなんだか」
ミヒラクラを突破できなかったイルヤースは、無念の呻きを漏らした。もう少しで崩れそうなのに崩れない。ミヒラクラの粘りは異常であった。
「わしらは殿軍じゃ。せめてそれくらいせんと、ミーラーンに申し訳が立たんわ」
退却を始めるスグディアナ軍に、ヘテルの軍勢が追撃に掛かる。だが、ブハラのサカ人たちは退却せず、追撃を食い止めた。
「じじい、よくもおれさまの装甲槍騎兵相手にやってくれたものだな!」
味方を蹴散らしながら、ミヒラクラの巨体が接近してくる。黄金の冑もひしゃげており、この男もまた苦戦の中激闘を重ねていたのがわかった。
「大人しくハザール海の北におればよいものを。南の陽射しはそなたらにはきつかろうて!」
イルヤースが老人に似合わぬ剛力で戦棍を振り下ろす。だが、ミヒラクラが槍を一閃すると、イルヤースは体ごと吹き飛ばされた。
「寝言はあの世で言いな!」
風を斬り裂いて振るわれた重い鉄槍が、イルヤースの頭蓋を叩き潰した。かくして信義に篤い穏やかな老将は、キシュの郊外で散ったのである。