第十章 ヘテルの覇王 -2-
アフシュワルの天幕は、着到の報告に来る諸侯や族長でごった返していた。バクトラの動員兵数は五千を数えるが、都市に常駐しているわけではない。日頃は遊牧している男たちを招集しないとならないのだ。
アス人の甲冑は、鱗状に鉄片を重ねた重装の鎧である。サルマート民族の騎兵は基本的に重装騎兵であり、かつて短弓、短剣を基本装備としていたイシュクザーヤの騎兵を破ったのは、この装備の力によるところが大きい。だが、獣の民の複合弓を相手にしたときは、強弓に甲冑を貫通され、敗北を喫する結果になった。
ハザール海の北に勢力を張ったサルマート民族は、獣の民の西進のときに多くはその支配下に組み込まれ、大陸の西へと去っていった。バクトラに移動してきたアス人はそのうちのごく一部であるが、その重装騎兵の力でバクトリアを席巻したのである。
シェンギラ、トラマーナ、ミヒラクラと、アフシュワルの三人の息子が揃い、バクトラの準備は整いつつあった。アス人は、柔らかな金髪と獰猛な青い目が特徴である。肌は白く、一見すると優男に見えるが、その狂暴さは月の民の諸侯も辟易とするほどであった。
「出撃はまだかよ、親父!」
黄金の冑をかぶった筋骨逞しい若者が叫ぶ。アフシュワルの三男ミヒラクラである。息子の中では最も武勇に優れた戦士であり、長槍の扱いでは右に出る者はいない。
「慌てるな。まだバダフシャン侯が着陣しておらん」
豪奢な絨毯の上で、金糸に彩られた絹の服を着た男がミヒラクラをたしなめた。一代でバクトラを手中にし、ヘテル王国を打ち立てた英傑アフシュワルである。ミヒラクラを上回る長身であるが、筋肉は息子ほどではなく、引き締まった体型をしている。
「ぺシャワール侯は来たのか?」
長男のシェンギラが尋ねる。弟のような肉厚の体格ではないが、思慮深い眼差しをしていた。
「いや、あくまでわしらに対抗するつもりのようだ。屁理屈を捏ねて兵を出さん」
「ぺシャワールなんて、踏み潰せばいいんだよ!」
ミヒラクラは鼻息荒く主張する。ヘテルの最強の衝角たる装甲槍騎兵を率いるだけあり、かなり好戦的である。
「慌てるな。ぺシャワールの前にマラカンドだ」
アフシュワルのスグディアナ侵攻の目的はキシュなどではなく、マラカンドを支配下に組み込むことにある。スグド人は武力など持たず、商売だけしていればいいのだ。その旨みをパールサ人などに流されては面白くない。
バクトラは光明神信仰が盛んな地であったために、アフシュワルも光明神の教団は保護している。だが、このあたりの教団はファルザームの威光が通じず、自分たちの方が正統だと主張している。
アフシュワルは、このバクトラの東方拝火教団と手を組み、スグディアナや聖王国と戦う名分を掲げていた。バクトリアやガンダーラの諸侯がアフシュワルに服したのは、この東方拝火教団の権威も大きかったのである。月の民諸侯は月神信仰であるが、支配する民が光明神信仰が多く、無視はできないのだ。
「アーラーンは出てくるかな」
次男のトラマーナは冷静な口調で言った。弟と違い激することはないが、三兄弟で最も残酷な合戦をするのがこの男だ。降伏を許さず、捕虜を皆殺しにすることもしぱしばある。都市の掠奪も好み、蓄財も欠かさない。
「ナーヒードは出て来ざるを得まい。あの女王の兵站は、マラカンドの財力に負っている部分が大きい。ミーラーンの支援を失っては、軍事行動も儘ならない。それはよく理解しているはずだ。それを見越してのアルダヴァーンの作戦だ」
「アーラーン軍の中核を成す歩兵部隊から女王を切り離し、スグディアナを女王の墓とする、だったか? スグディアナの軍団はおれたちが引き受けるが、パルタヴァは女王に勝てるのかねえ」
「仮にもパルタヴァの英雄と言われた男だ。むざと負けはしまい」
話している間に、天幕の外が騒がしくなってくる。どうやら、バダフシャン侯の軍勢が到着したらしい。三人の息子たちは一斉に立ち上がると、無言のまま天幕の外に出ていく。待っていた軍勢が到着したのだ。当然、出陣の準備をしなければならない。
竜を象った吹き流しの旗が翻った。
サルマート民族の軍の特徴の一つだ。長い吹き流しの旗を掲げるのは、騎射のときに風向きを読むためだ。軽弓騎兵を率いるシェンギラとトラマーナは、それぞれ青い竜旗と赤い竜旗を掲げていた。ミヒラクラの装甲槍騎兵が掲げるのは、黄金の竜旗である。そして、ヘテル王たるアフシュワルの下には、金翅鳥の旗が翻る。
ついに、ヘテルの軍団が、スグディアナに向けて北上を始める。
キシュの太守クドラトが保有する騎兵の数は、およそ千騎である。その内訳は、ほぼ月の民で占める。月の民がスグディアナに入ったときの主戦力になった軍団の子孫であり、優秀な遊牧民たちである。その武装は革の胸甲や合成弓が主であり、副武器として剣を携える。
月の民の旗は三日月であり、敬虔な月神の信徒であるクドラトは、この旗に誇りを持っていた。それだけに、三日月の旗を棄て、東方拝火教団に迎合するバクトリアとガンダーラの月の民諸侯が許せなかった。それだけに南からの侵攻に対する敵愾心は強く、スグディアナ都市連合の援軍を心待ちにしていた。
吉報と凶報は、ほぼ同時にもたらされた。
南からのヘテル軍の襲来とともに、北からミーラーンがスグディアナ連合軍を引き連れて到着したのである。クドラトは喜んで太守たちを迎えたが、その中にブハラのイルヤースがいるのを見て驚いた。
「イルヤース殿、パルタヴァとメルヴの軍がブハラに近付いていると聞いたがよいのか?」
サカ人の老人は素朴な笑みを浮かべると、穏やかに語った。
「パルタヴァ軍は、ナーヒード陛下が必ず止めると仰せになった。だから来たのだ」
クドラトは、イルヤースのナーヒードへの信頼の高さにも驚きを隠せなかった。あの女王はそこまで信用できるのか。ミーラーンの次に頼りになるこの老人がこれだけ言うのだから、間違いはないのであろうが。クドラトではこの状況で自らの都市を空けて救援に来る決断は下せないだろう。
片足を引き摺りながらミーラーンがやって来た。マイムルグの太守バティルとクシャニアの太守ブラトも同道している。
「すまんな、クドラト殿。まだ全ての軍が揃っておらぬ。ジャグータとホージェントは兵を出さず、タシュケントとフェルガナはまだ未着だ」
ミーラーンの強い瞳には、戦力を揃えられない無念が僅かに滲んでいた。クドラトは恐縮したが、トゥルヤ人の盟約違反には不満を漏らした。かつてはスグディアナを支配し、いまもスグディアナの北の原野で遊牧を続けるトゥルヤ人の戦力は決して低くはない。いくらスグディアナの覇権を奪われたとは言え、結んだ盟約に背く行為には道理がない。クドラトと仲がいいバティルも憤慨している。
「できるだけ開戦は引き伸ばすが、仕掛けられたら戦わざるを得ない。こちらはマラカンドが二千、ブハラが二千、マイムルグとクシャニアとキシュが千ずつで七千騎。兵力は互角ゆえ、わしなら勝つ」
ミーラーンの豪語を、太守たちは笑わなかった。大いなる跛者と呼ばれるこの男の軍事的才能は、それだけ信じられていたのである。