第十章 ヘテルの覇王 -1-
オアシスの道。
大陸の東から西へと繋がる隊商の道である。
大陸の東で覇権を握るのは、ムグール高原のアヴァルガとその南のルーデシェン河流域のタムガージュである。どちらもムグール系の遊牧民であるが、タムガージュは南下して定住化し、アヴァルガは高原で遊牧を続けていた。
ムグール高原をもともと支配していたのは、月の民である。だが、後に獣の民に取って代わられた。その獣の民も後にタムガージュに高原の支配権を奪われ、大陸を西へ西へと移動していった。時代が下るとタムガージュは高原から移動してルーデシェン河流域を領土となし、空になったムグール高原をアヴァルガが支配したのである。だが、アヴァルガの東にはタムガージュの支族であるヒターが勢力を伸張させつつあり、アヴァルガやタムガージュの国境を荒らしていた。
ムグール高原の西、クルグス草原東部を支配しているのがテュルキュト系遊牧民のテレゲである。テレゲは、同じテュルキュト系遊牧民の鴉の民と内戦状態にあり、苦戦が続いていた。
クルグス草原の南、アーセマーン山脈の北を通るオアシスの道が、アーセマーン北路である。ウルムチ、グルジャなどジェギュン・ガル盆地の諸都市を通り、タラズからマラカンドへと至る道である。
アーセマーン山脈の南にあるタリム盆地の北側を通るオアシスの道が、アーセマーン南路だ。トゥルファンからケシケル、バクトラへと至る道であり、そこから北に向かいマラカンドへ繋がる。
タリム盆地の南を回るオアシスの道が、ジョヌーブ街道である。ドゥンファンからホータンナを通り、ケシケルでアーセマーン南路に合流する。
これらのオアシス都市は、大なり小なりいずれかの遊牧民の支配を受けており、いかに大陸で騎馬民族の力が強大かを物語っていた。
バクトラを拠点とし、バクトリアからガンダーラに掛けて急速に支配を拡充するヘテルもまた、そう言う遊牧民族の作った国家の一つであった。
ヘテルの支配者層を占めるアス人は、かつてはハザール海の北西部ウラルトゥの辺りにいた遊牧民である。獣の民の津波のような西遷に蹴散らされ、一時期はハーラズムに移動したが、アム河を次第に遡り、スグディアナからバクトリアへと入った。
ヘテルの王アフシュワルは、麾下の騎馬兵団に総動員を掛けていた。月の民諸侯のうち二人はパルタヴァに派遣しているが、ティルミド侯とバダフシャン侯の二人を更に招集する。ペシャワール侯は未だヘテルに服属しておらず、使者を送っても黙殺されていた。
アス人、トハラ人を中核とするバクトラ騎兵五千に、ティルミドとバダフシャンの月の民騎兵部隊が千騎ずつ加わり、アフシュワルは七千の騎馬兵団を編成していた。彼の狙いはスグディアナの併呑であり、まず狙われるのはキシュであった。
緑の街とも呼ばれるキシュは、スグディアナでも最古のオアシス都市である。この都市を支配する太守も月の民であるが、スグディアナの月の民とバクトリアの月の民は元は同じでも途中で枝分かれした別氏族である。
アフシュワルが兵を集めていることを察知したキシュの太守クドラトは、スグディアナの盟主マラカンドに救援を求めた。スグディアナの総督にしてマラカンドの太守ミーラーンは、マイムルグ、クシャニア、ブハラ、ジャグータ、ホージェントのスグディアナ諸都市に出陣を要請する馬を走らせる。
スグディアナの総兵力は一万騎であり、諸都市が協力すればヘテルにも十分対抗できた。諸都市のうち、マイムルグとクシャニアは月の民が支配し、ジャグータとホージェントはトゥルヤ人が実権を握る。トゥルヤ人はアールヤーン系の遊牧民で、スグディアナの北に勢力を張っている。一時期はマラカンドを支配し、スグディアナ全体を従えたが、今は月の民に縄張りを奪われていた。
キシュ救援の名目であるため、マイムルグとクシャニアは兵を出した。マラカンドの盟友とも言うべきブハラは言うまでもない。だが、月の民と確執のあるジャグータとホージェントの返事がはかばかしくない。理屈をつけて、出陣を引き伸ばしている。
それだけでも頭が痛いところであるが、更に凶報が舞い込んで来る。ブハラのイルヤースからの使いが、血相を変えて飛び込んで来た。
メルヴに、ハーラズム征討から帰還してきたアルダヴァーンとその指揮下の騎馬兵団が集結していると言うのだ。カドフィセス、ヴィマタクト、トミュリスを麾下に加えたその兵力は一万騎に達し、ブハラへの出陣準備を整えているらしい。
ミーラーンとイルヤースは頭を抱えた。二正面作戦を行うには、戦力が足りない。ジャグータとホージェントに兵を出してもらっても全然足りないのだ。
タシュケントとフェルガナにも援助を要請し、更に聖王国のナーヒードにも助けを求める。スグディアナを巡る戦いは予想を遥かに上回る総力戦の気配を見せ始めていた。
サナーバードでミーラーンからの救援要請を受けたナーヒードは、すぐに救援を向かわせる返事をしたものの、その編成を決めかねていた。
ヘテル軍もパルタヴァ軍も、全て騎馬での編成である。聖王国の防衛戦なら歩兵も動員できるが、スグディアナへの遠征となると歩兵では開戦に間に合わない。
ヒュルカニアやレイに派遣しているミルザやヒシャームを呼び戻し、シャタハートを加えてナーヒード自らが出陣する。ナーヒードは騎兵の増強を図っており、現在の聖王国の騎馬隊の総兵力は六千騎である。ミルザの千騎を加えて七千騎。メルヴに集結している一万騎の相手もできなくはない。
アルシャク率いるパルタヴァ騎兵がヒュルカニアの隙を窺っているので、シャープールには西方の防衛の束ねを、バナフシェフには東方の防衛の束ねを託す。
「勝ったはずなのに、何か負けたみたい」
親衛隊に出動の命令を出しながら、アナスがぼやく。前回パルタヴァの騎兵戦力を削げなかったのが、今になって響いている。雑務はフーリが処理しているので、アナスは自分の準備だけすればいい。
「馬の準備が出来ました、将軍」
甲冑を身に付け、剣を提げたところに従者が入室して来る。アナスは返事をしようとして、入ってきたのがアルナワーズであることに気付いた。
「殿下はお留守番よ」
素っ気なくアナスは言った。お転婆王女は膨れ面で抗議の声を上げる。
「お願いします、将軍! わたくしの初陣なんですよ!」
「今回は状況が悪いわ。殿下みたいな素人が出陣したら、真っ先に死ぬ。護ってあげられるほど余裕はないの」
アルナワーズはなおも言い募ったが、アナスはぴしゃりと断った。余裕がないのは本当である。例えナーヒードが連れて行けと言っても断るつもりだ。
最後には、アルナワーズは涙を流して走り去った。アナスは大きくため息を吐く。これから大変な合戦が待っているというのに、余計な気苦労をさせられることへの苛立ちもある。
「もう、こんな役目は勘弁してもらいたいものだわ」
ただでさえ、親衛隊は千騎に増員され、調練も行き届いていないのだ。今回の出陣にはいい見通しがない。だが、それでも行かねばならないし、勝たねばならないのだ。
アナスはもう一度ため息を吐くと、意を決して扉を開けた。