第九章 パルタヴァの英雄 -7-
スーレーン侯爵は、騎兵五千騎を率いてシャフレ・レイに向かった。自らの騎兵三千騎と、ソーハ伯爵、アスパフバド伯爵、それにダーハ伯爵の残存部隊を足した二千騎である。
アールフ・アームートの包囲は、引き続きヒュルカニア総督軍一万が行い、ギーラーン歩兵三千をその指揮下に入れる。騎馬隊の牽制にはミフラーン伯爵二千が残った。
アールフ・アームートからシャフレ・レイまでは、普通に行けば騎馬で二日の道程だ。だが、午後に進発したアルダヴァーンは、夜通し駆け通して翌朝にはシャフレ・レイを臨む位置に到着していた。そこで馬に一息入れる。さすがにこのまま攻撃には移れない。
「カーレーン侯爵の騎馬隊が城外に出ているのか」
ザルミフルは、騎馬二千騎で敵軍を崩そうとしていた。普通の歩兵が相手なら、二千騎の騎兵を相手に支えきれるものではない。機動力と弓箭の前に心折られ、大抵は戦線を崩壊させる。
だが、バナフシェフの一万の歩兵は巧みな連携を見せ、いつの間にかザルミフルを城壁との間に押し込めるのに成功していた。包囲を受け、ザルミフルは危地に立たされる
「あれは危ない。ソーハ伯爵を出せ」
イシュトメーグの千騎が動き、包囲の一角に穴を開ける。ザルミフルは窮地を脱し、再び敵と押し合い始めた。
バナフシェフの軍は、いつの間にかこちらの動きも警戒した陣形に変わっていた。迂闊に仕掛けると、懐深くに引き摺り込んで、包囲殲滅に持っていこうと言う意図が透けて見える。バナフシェフは真っ当な戦術家で、奇略を用いるタイプには見えない。
ヴァラーグにダーハ家の騎兵も付けて出撃させる。これで騎兵四千が飛び回っている形になり、バナフシェフの余裕もなくなってくる。アルダヴァーンは、じっくりとバナフシェフの兵の動かし方を観察した。基本は、バムシャードの老人の戦い方にそっくりである。盾兵を使った堅固な守りは健在だ。この歩兵運用は、フルム帝国に近い。自分と左隣を大きな盾で守護するから、一番右は弱点となる。だが、それだけに最右翼には最強の兵を配備しているはずだ。実際、右に行くにつれ守りは鉄壁に近い。
アルダヴァーンは、スーレーン騎兵を千騎敵の左翼に動かした。敵は雨のような騎射によく耐えるが、たまに練度が甘い兵がいて倒される。だが、その穴はすぐに塞がり、侵入を許さない。よく鍛えられている歩兵であった。これだけの動きを見せる歩兵は見たことがない。
小競り合いは数日間続いた。どちらも相手の隙を見出だせず、戦いは散発的にならざるを得なかった。あまり時間を掛けると東からナーヒードの本隊がやって来る。もっとも、アルシャクが止めているのだ。まだナーヒードの到着まで一月は余裕があるとアルダヴァーンは見ていた。
翌日、アルボルズ山脈でミフラーン伯爵が押さえていたはすの敵の騎馬隊三千騎が現れた。嫌な予感がしたので、シーリーンにアルボルズ山脈に部下を派遣させる。敵の増援が到着したため、アルダヴァーンも総力を上げて戦わざるを得なくなった。だが、それでも突破口は見つからない。バナフシェフの守りは異様に固く、騎馬と連携を取られると容易には崩せない。
「ヒュルカニア総督軍が下山して来ている?」
シーリーンからが報告に来たのは、更に三日後である。
「アールフ・アームートが落ちたのか? それにしてはミフラーン伯爵が来ないのは解せないが」
「バフラム卿は戦死されました。ミフラーン伯爵の部隊は壊滅です。シャープールが裏切りました。ヒュルカニア総督軍は、我らを討ちに向かってきております」
そんな莫迦なことを、と一笑に付すには、アルダヴァーンの頭は良すぎた。初めからこの形の絵図を描いていたやつがいるのだ。ナーヒードか、バナフシェフかはわからないが、そいつはアルダヴァーンの動きも計算に入れて、完璧なタイミングでシャープールの洗脳まで解いてのけた。
「全部隊に連絡。アスタラーバードに撤退する」
そいつの絵図に乗った状況では、勝ち目はなかった。戦い方は幾らでもあるのだ。負ける戦いは避けなければならない。撤退は妥当であった。
「思ったより、早かったな」
潮のように退いていく敵の騎馬隊を見ながら、バナフシェフは呟いた。本当は、此処で痛撃を与えたかったが、敵の指揮官は恐ろしく優秀であった。バナフシェフの動きを研究し、その僅かな隙を突こうとする。バナフシェフは、常に過去の自分を上回ることを要求されていた。成長しなければ、アルダヴァーンにやられる。倍する兵力を有していてなお押されるのだ。それでも致命的なミスはせず、綱渡りを渡り切った。何とか持ちこたえたのだ。
ヒシャームとミルザの騎馬隊は追撃に出ていった。アルダヴァーンが下手な動きをしないかの監視も兼ねている。
「危ないときには貴女にも出てもらおうと思っていたけれど、そこまでの事態にはならなかったな」
「お陰で暇だったわ」
バナフシェフの隣に立っていたのは、アナスであった。アルダヴァーンとの対決に備えてこちらに回っていたのである。
「サーリーでは女神とやりあったそうだが、大事ないのか?」
「あまり体験したくはないけれど、かろうじてね」
アナスは、王都からファルザームが来た日のことを思い出した。あの日、一羽の鷹日がアールフ・アームートに降り立った。比喩ではなく、鷹に変化したファルザームである。
ファルザームはアナスに会うと、サーリーへの同道を命じてきた。いきなりの話にアナスも驚いたが、ナーヒードも認めている戦略の一環だと言われると、断ることも出来なかった。
炎翼を出し、鷹と化したファルザームの後ろを付いていく。飛びながらファルザームが飛行や魔術のコツなどを教えてくれた。
「アナスよ、おぬしはすでに魔力ではなく意力で力を使うことができる。魔力は言わば決められた通りのことしかできない術式じゃ。しかし、意力には制限がない。おのれの意志と想像力が全てじゃ。意力の扱いに習熟せよ。それが、神に勝てる道となろう」
サーリーでは、また女神の聖火を消さなければならない。それは、つまりまたハラフワティーと対峙すると言うことだ。シャフレ・レイでは僥倖で命を救ったが、サーリーではわからない。アナスの神速すら、ハラフワティーにとっては標準速度である。戦いの女神と言うものがこれだけ厄介な相手だとは思わなかった。
サーリーに到着後、何日か潜伏する必要があった。シャフレ・レイがバナフシェフに包囲され、アルダヴァーンが騎兵を率いてシャープールから離れるタイミングに合わせなければならない。状況はヒルカから連絡が入ってくるので、それまでは待機である。
退屈な三日が過ぎると、ヒルカから合図が来た。アナスとファルザームは、闇の書記官の手引きで聖廟へと向かう。聖廟の神官はすでに闇の書記官に始末されており、抵抗もなく入ることができた。
聖火壇があるのは、最奥の部屋である。
部屋の外から聖火壇を見たアナスは、聖火に濃密な女神の気配があるのを見て取った。透明な影が聖火の中に揺らめいている。その気配は、シャフレ・レイで出会ったときの比ではなかった。