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紅星伝  作者: 島津恭介
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第九章 パルタヴァの英雄 -6-

 ダイラム軍は、次第に撤退を余儀なくされた。森の中で、峡谷で、桟道で、ダイラム兵はヒュルカニア兵を迎撃したが、その進撃を止めることは出来なかった。


 ついにヒュルカニア兵はアールフ・アームート砦の下まで到達し、崖に作られた階段は封鎖された。山頂に構えられた砦から眼下を一望すると、ヒュルカニアの兵士で視界は埋め尽くされている。だが、ダイラム兵は未だ士気旺盛であり、抗戦を声高に叫ぶ者が多かった。


 シャフリヤール、シャハルナーズ、アルナワーズの三人には、アールフ・アームートの砦地下深くの一室を与えられている。ザールが近衛の騎士数名と護衛についており、警戒も怠らない。そこにワシュムギールが氏族長(ワフリーズ)を数人引き連れてやってきた。彼らの表情は様々であるが、あまり愉快なものではない。


「パルタヴァの兵が砦の下までやってきましたぞ」


 ワシュムギールは疲労の色が濃い。氏族長(ワフリーズ)の調整に疲れているのだろう。


「むざむざ敵を此処まで進軍させるとは、聖王国の騎馬隊は何をやっておられたのか!」


 氏族長(ワフリーズ)の一人が叫ぶ。ザールはその男に白い目を向けた。


「パルタヴァの兵は明日には撤退する。大丈夫だ」


 ザールは感情を押し殺して言った。氏族長(ワフリーズ)たちは、色めき立つ。ザールの言葉を信じていないのは、確実であった。


 そこに、家父長(カドホター)の一人が駆け込んできた。一瞬敵の襲来かとも思ったが、事態はそれより深刻であった。


 三つの井戸に毒が投げ込まれた。幸い飲んだ者は少数だが、何れも短い時間で絶命している。水の手を絶たれるのも致命的だが、問題は内部にその犯人がいることであった。


 ワシュムギールは頭を抱え、氏族長(ワフリーズ)たちは騒ぎ始める。心優しきシャハルナーズが氏族長(ワフリーズ)たちを宥めようとしたが、逆に激昂するだけであった。ザールは首を振ると、騎士たちに命じて氏族長(ワフリーズ)たちを部屋から追い出した。そして、最後にもう一度だけワシュムギールに言った。


「とにかく、明日には敵は撤退を始める。水は心配するな。多少の備蓄はあろうし、井戸がなくとも、一日や二日は持つ。おぬしは氏族長(ワフリーズ)を抑えよ。あれでは戦いにならんぞ」


 これでもザールは先代アーラーン王の弟であり、侯爵位にあった貴族である。普通なら、ダイラム人の無礼に激怒してもおかしくはなかった。いや、事実怒ってはいた。それでも、経験を重ねた宮廷貴族のザールは、その怒りを隠す術に長けていた。


 ワシュムギールは頼りなく頷いた。ダイラム人としても、聖王国と仲違いをしたいわけではないのだ。だが、ダイラムには王がいるわけではなく、ワシュムギールにはまとめ役の荷が重かった。彼は身内の調整に疲れきっていたし、裏切って毒を入れた者がいたことに衝撃も受けていた。


 ワシュムギールが出ていくと、シャフリヤールはうんざりしたように言った。


「叔父上には申し訳ないが、ダイラム人と話をすると怒鳴りそうになるのだ。特に仲裁に入ったシャハルナーズに手を上げようとした者など、斬り捨ててやろうかと思ったのだ」 

「本当に、姉上に対する無礼は見過ごせないわ。叔父上がいつ剣を抜かれるか、楽しみにしていたのに」


 姉と違い、アルナワーズはお転婆であった。この四兄弟を一言で表現すると、長姉のナーヒードは果断、次兄のシャフリヤールは我が儘、三女のシャハルナーズは優美で、末っ子のアルナワーズは活発である。


 それでも、常ならば兄弟同士の仲は悪くなるものだ。だが、不思議とこの兄弟の仲はよかった。本来なら男子であるシャフリヤールが後継となるところを、ナーヒードに取られても文句は言わなかった。シャフリヤールの興味は政治や戦争になく、文芸にあったからかもしれない。


「それくらいにしておくのだ。誰が聞いているかもわからん。王家に連なる者は、おのれの言動に常に気を使うのだ」

「さすが叔父さまです。女性に対してもそうであれば、完璧なのに!」


 ザールの助言を、アルナワーズが台無しにした。ザールは長い前髪を指先で巻き上げると、姪に背を向けてこっそりとため息を吐いた。




 アルダヴァーンの計画は順調に推移していた。被害は出たが、予定通り歩兵は砦の下に到達した。敵の騎馬隊はミフラーン伯爵麾下の軍で押さえられている。井戸に毒を撒くのも成功した。後は包囲していれば渇き死ぬ。


「毒がうまく行かなかったときに備えて他にも手は用意していたが、使うまでもなかったな」


 傍らに控えるシーリーンに嘯く。副官は恭しく一礼したが、油断は禁物です、と戒めるのを忘れなかった。


「しかし、ナーヒードの軍はパルニ公が足止めをしている。此処にいる騎馬は封じ、歩兵は砦に押し込めた。もう、彼奴らに手は残されていないだろう」

「はい。しかし、まだ敵は真紅の星(アル・アスタール)を出してきていません」


 スーレーン侯爵の目が僅かに細くなった。確かに、敵は本気で抵抗はしていない気がする。スーレーン騎馬隊を出してもいないし、用意してきた幾つもの対策のほとんどは使わないままだ。だが、こと此処に至ったら、意味はないのではないか?


「まだ、敵は小細工をしている可能性があると?」

「当然しているでしょう。それが効を奏するより先に…」


 シーリーンは最後まで言い切ることが出来なかった。早馬を知らせる鏑矢が上がったのだ。鏑矢の音は次第に近付いてくる。アルダヴァーン宛の早馬に相違ない。


「小細工か?」

「十中八九」


 早馬が視界に入る。かなり急いで来たのか、馬が泡を吹いている。鎧の紋章を見るに、カーレーン侯爵の騎士であることは間違いなさそうだ。


「アルダヴァーンは此処だ。用件を言え」


 早馬を呼び寄せると、力尽きた馬を打ち捨てて使者は転がるようにアルダヴァーンの許にやってきた。


「カーレーン侯爵より、アルダヴァーン卿に伝令! シャフレ・レイに敵が侵攻、陥落間近! 至急の救援を乞う! とのことであります!」


 アルダヴァーンは、咄嗟にアナスが一隊を率いてシャフレ・レイに行ったのか、と考えた。だが、シャフレ・レイにはカーレーン侯爵の兵が二千は残っていたはずだ。少数の兵で落とされるような都市ではない。


「敵は何処の兵だ」


 かろうじて尋ねると、伝令は形で息をしながら言った。


「聖王国の軍です。一万を数える聖王国の歩兵が、シャフレ・レイを攻囲しております!」

「一万の歩兵だと?」


 今度こそわからなかった。それだけの数の歩兵ならば、ナーヒードの兵であろうか。しかし、それにしては到着が早すぎる。アルシャクの妨害もある。ナーヒードは、まだ半分も進めていないはずだ。


「いや、ある、あるか!」


 不意にアルダヴァーンは思い到った。


「シーリーン! 聖王国の大将軍ブズルク・フラマンタールの兵は何処にいた!」

「バナフシェフの兵なら、ヤズドに…」


 途中まで答えかけて、シーリーンも気付いた。


「まさか、ヤズドからシャフレ・レイに? 途中にアスパダナもあるはずですが」

「あそこにはいま兵はいない。間違いない、シャフレ・レイはバナフシェフの兵に攻められている。陥落間近と言ったな?」

「は、城門は長くは持ちませぬ。恐ろしく規律の取れた軍隊で」


 束の間、アルダヴァーンは迷った。これは、自分をシャフレ・レイへ向ける敵の策であることは間違いない。だが、すでにアールフ・アームートは死に体で、兵数だけあれば足りる状況ではある。


「シャープールを呼んでくれ」


 目を閉じ、副官に命じる。これが分岐点になるのは間違いない。どちらに勝利が流れるか。自分の判断に間違いはないはずだ。負ける要素は思い浮かばない。しかし、未だ姿を見せぬアナスの影が、アルダヴァーンを不安にさせるのであった。

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