第九章 パルタヴァの英雄 -4-
アーラーンの真珠、アスパダナ。
シャフレ・レイからシラージシュを結ぶ街道の中間地点にあり、アーラーン中央部の要地である。アスパダナとは大軍の集積地から来た名称であり、アーラーンの何処にでもすぐに軍を送れる利便性から軍事拠点として栄えてきた。ミタン王国の侵攻を受け、ケルマーンに駆け付けたシャーサバン騎兵が駐屯していたのが、此処である。都市は時に軍隊とも呼ばれていたのを見れば、いかに重要な軍事拠点だったかはわかる。
都市は東西に分かれており、東をジャイ、西をヤフーディーヤと言う。東は軍事拠点として質実剛健な雰囲気を湛えていたが、西のヤフーディーヤには放浪の民と呼ばれるミズラヒ人を中心に、砂漠の遊牧民であるバーディヤ人や、かつて西方世界からアーラーンを征服した頃の名残で住み着いているヘレーン人、フルム帝国のフルム人、シラージシュのパールサ人など各地の商人が集っていた。ミズラヒ人の信仰する神は、神々の調整役たるエンキ、またの名をエルである。かつて神々の王であったエンリルがマルドゥクに敗れたとき、エンキもまた西方フルムの地に去った。そのため、ベル・マルドゥクが半島を席巻し、カナンの地に住んでいたミズラヒ人を追い出したため、この民族は放浪の民と化した。一方、砂漠で独自の信仰を持つバーディヤ人には新たな神々の王であるマルドゥクの名も浸透しておらず、この勇猛な駱駝の民は未だまとまる気配もなく幾つかの部族に別れて砂漠で大人しくしていたのである。
ハラフワティーの復活の後、街は一時的にファルロフ将軍のミーディール兵一万の支配下にあったが、将軍が西方に去った後は放置されていた。女神が東方に興味がなかったためである。
ファルロフはアスパダナの守備兵もあらかた連れ去ってしまったため、いまのアスパダナに軍事力はほとんどなかった。
それだけに、ヤズドからナーイーンを経由して進軍してきたバナフシェフの兵一万を見たとき、太守は瞬時に降伏を決めた。千にも満たない兵で対抗できる軍容ではなかったためである。
バナフシェフは太守の権限を暫時保障した。当面、此処を直轄地にする余裕はないからである。パルタヴァ王国との戦争中は、太守に任せていた方が都合がいい。
商務長官に頼まれていたバナフシェフは、ヤズドやサナーバードへの交易ルートに関税を設けないことを商人たちに約束した。滞っていた中南部の物流を活性化させ、経済を振興させねばならない。ヤズド商人出身のイーラジの目は確かであった。
一日だけアスパダナに滞在したバナフシェフは、すぐに北上を再開した。今回の作戦は、バナフシェフの進軍が鍵となる。それだけに、遅れることは許されない。
手塩にかけた一万の兵は、長駆にもよく耐えた。走ることだけは嫌と言うほどやって来たのだ。並みの歩兵では、一万もいたら一日にニ~三パラサング(約十五キロメートル)も進めればいい方だ。だが、バナフシェフの歩兵は一日に五~六パラサング(約三十キロメートル)は進んだ。輸送の荷物や装備を抱え、列をなして進みながらのこの速度は尋常ではない。
バナフシェフは、初めてバムシャード将軍の許に配属された日のことを思い出した。士官として赴任してきた彼女を、バムシャードはいきなり兵と一緒に長駆に参加させたのだ。武芸や騎乗技術は鍛えていたつもりはあるが、何日も何日も走り続けるようなこんな訓練はしたことがなかった。バナフシェフは三日目で兵から遅れ出し、バムシャードから罵倒された。剣を突きつけられ、役に立たない女は王都に帰れと言われたときには、それまで培ってきたプライドを全て叩き潰されたものだ。
結局、バナフシェフは涙を流しながらも最後まで駆けた。兵から遅れたら殺すと凄まれ、いつかこの老人を殺してやると思いながら、それを支えに走り切ったのだ。
次の長駆の訓練のときには、バナフシェフはもう遅れずに駆けられるようになっていた。老将軍は相変わらず憎たらしかったが、バナフシェフは老人に先んじて駆け、鼻を明かしてやった。そんなことを何度か繰り返していると、老将軍は自分に一隊を預かる部隊長に任じた。
部隊の指揮をするようになってからは、調練で老人の采配の老獪さに何度も叩きのめされた。バナフシェフは、いつからか老人の全てを必死に真似るようになった。そうしなければ、調練に付いていけなかった。
調練で老将軍から一勝をもぎ取ったとき、バナフシェフはかなり得意気な表情をしていたと思う。それだけ嬉しかったし、また老人にざまあみろと言う思いもあった。
バムシャードは、静かにバナフシェフを抱擁すると、おめでとう、よくやったと言った。何故かはわからないが、そのときバナフシェフは泣き出したはずだ。老人に認められて嬉しかったのかもしれない。それだけではない気もする。
それ以来、バナフシェフは老将軍の副官になった。バムシャードの全てを身に付け、本人よりもバムシャードの思考に詳しくなるほどであった。まさに分身と言ってよく、バムシャードは何も言わなくても、副官に任せれば自分の意志通りに部隊は動いた。
その経験の全てが、いまに生きている。バムシャードは死んでもう地上にはいないが、彼の全てはバナフシェフの中に息づいているのだ。
アーファリーン、ミナー、サルヴェナーズの三人には、彼女の全てを叩き込んである。優れた指揮官に育ったが、今一つ突き抜けていない。そう思っていたが、先の戦いで、サルヴェナーズが殻を破ってきた。いまのサルヴェナーズは、兵の一人一人におのれの戦う意志を乗り移らせる域に達している。殺意をみなぎらせながら迫るサルヴェナーズの突撃は、守りに強いミナーの防衛線を一撃で砕く。
そうやって受け継がれていくのだ。想いを伝統の中に封じ込め、人は後に繋いでいく。
一ヶ月でシャフレ・レイまで到着と言うのは、並みの軍隊では無茶な日程であった。だが、バナフシェフはそれすら上回る気で駆けた。落伍する兵は斬り捨てると宣言していたが、誰も遅れる者はいなかった。
今頃、兵はバナフシェフめ、死んでしまえ、などと思いながら眠りについているだろう。
ヒルカを通じてアールフ・アームートの状況はわかっている。アルダヴァーンがまだ攻め寄せていないところを見ると、シャープールの到着を待っているのだろう。説得に向かったシャガードは失敗した。アルダヴァーンの手の者に襲われ、深い手傷を負ったのだ。エルギーザの部下が救わなければ、殺されていただろう。
ナーヒードは、まだ諦めていない。女王はヤズドで諦めると言う言葉を捨ててきたのだ。ファルザームを放ち、アナスと極秘の作戦を行うよう指令を出している。機動力とタイミングが勝負の作戦になるだろう。
ナーヒードがシャタハートの騎馬隊と合流した。アルシャクも、パルタヴァ総督軍の歩兵を繰り出してくるだろう。
同じ頃、シャープールのヒュルカニア総督軍がアルダヴァーンの許に到着する。シーリーンの仕掛けた罠が発動し、アルダヴァーンが攻勢に出る刻となった。
そして、アナスとファルザームは、ヒュルカニアの州都であるサーリーの地に降り立ったのである。