しゃんぷー
ーー12月の真夜中。
俺は絶対にやってはいけないことをやってしまった。そう、風呂に入る前にテレビの心霊特番を見てしまったのだ。
只々、ボーッと深夜番組を眺めていたら、急に始まった季節外れの心霊写真特集。さわりだけを見るつもりだったのに......気づけば1時間近くも経っていた。恐怖に怯えながら手で目を隠しつつ、指の間から恐る恐る、しかし一切見逃すことなく全ての心霊映像を制覇してしまった。
なんてことだ。
真冬だと言うのに風呂が怖い。
二十代にもなって、自分は何を言っているのだ。しかし......怖いものは怖い。大人になれば怖いものなどなくなると思っていたのに、いまだにお化けとゴキブリだけはどうも克服できない。でも、朝入るのはなにか違う気がする。ああ、今日は仕事が定時で終わったのだから早めに風呂に入っておけば良かった。まさか風呂に入るのがこんなにも億劫になるとは思わなかった。こんな時間にこんな気持ちになるなんて、ゲームのラスボスをやっとの思いで倒したと思ったら、ラスボスより10倍強い裏ボスが現れたような気分だ。
たかが風呂に入るか入らないかで、俺はどれだけ悩んでいるのだ。
もういっそのこと入らないでおこうか。さっきも考えたが明日の朝入ればいいではないか。ーーいいや、やっぱりダメだ。今日の疲れは今日のうちに風呂で癒して、明日は朝からリフレッシュした気持ちで仕事に行きたい。それに、朝はなにかとバタバタする。早起きをすればいいんじゃないか?いや、こんな時間に寝ても早起きなんてできる気がしない。
もーう。なんでこんな真冬に心霊特集なんてやるんだよ!
と、叫びたくなってきたが俺は大人だ。見るのを止められなくなった俺にも非があると言うものだ。しかし、そろそろ風呂に入らないと本当にまずい。これ以上起きていたら、明日会社で上司に怒られてしまうだろう。俺は意を決して服を脱ぎ始めた。
とりあえず全裸になった。
家の中だと言うのに肌寒い。鳥肌が立っている。この鳥肌は、さっきの心霊特集を見たからだろうか?それとも、脱衣所のヒヤっとする気温のせいだろうか。
しまった!
せっかく服を脱ぐと言う行為で心霊特集のことを忘れかけていたのに、鳥肌のせいで思い出してしまった。しかし、これからまた服を着てリビングに戻るのは無理だ。是が非でも風呂に入るしかない。そうだ。楽しいことを考えながら風呂に入れば怖くないのではないか。ピエロなんてどうだろう。サーカスに出てくるおちゃめなあのマスコット。ーーダメだダメだ。ピエロが子供を襲う映画を思い出した。さっきから俺は墓穴をほってばかりではないか。なにをしているのだ。と、ふいに横を見る。
脱衣所にある、洗面台の鏡が目に入った。
うわ、さっきの心霊特集に鏡に映る霊の映像もあったではないか。見るな。これ以上見たら、鏡の中の自分が動き出すかもしれない。なんでだ。まだ脱衣所の段階なのに、どうしてこんなに怖いのだ。そうだ。目をつぶって風呂に入ればいいのではないか。ナイスアイディアだ。目をつぶっていれば、例えお化けがでてきたとしても完全にスルーすることができる。ーー無理だ!お化けが接触してきたらどうするのだ。それに目をつぶって風呂に入るばかりか体を洗ったりシャワーの温度を調節するのは、レベルが高すぎる。ここは、覚悟を決めて普通に入るしかない。高鳴る心臓の鼓動を聞きながら、恐る恐る風呂のドアに手をかけた。
ギーッ
なんでこんな時に限って、ホラー映画のような音を出してドアが開くのだ。呪われているのか?俺に霊が取り付いてしまったのか?いいや、そんなことがあってたまるか。つい数分前に心霊映像を見ただけではないか。霊もそこまで暇ではないはずだ。大丈夫。とりあえず、風呂に浸かってしまえば癒しのエネルギーが湧いてくるに違いない。
なんてことだ。
風呂にフタがしてあるではないか。
これでは、フタを開けた時に髪の長い女の霊が飛び出してきそうだ。そう言えば、昨日買ってきたのだった。すっかり忘れていた。一生の不覚だ。これは俺を狙う機関の策略ではないか?ーーそれはない。なにを厨二病のようなことを考えているのだ。それに今は、機関よりも風呂のフタの方が100倍怖い。ただ、一つだけ望みがあるとすれば風呂のフタは丸めながら開けるタイプだということか。少し丸めて、中の様子を探りながら開ければ、いざ髪の長い女の霊がいたとしても出てこれまい。裸でリビングに逃げれば俺の勝ちだ。震える手で風呂のフタを丸める。
ガラガラ
「ひい」
風呂の中を見て情けない声が出てしまった。
怖い。恐怖だ。と言うか、驚いた。風呂の中にはなにも入っていなかったのだ。そう、お湯さえも。心霊映像に夢中になりすぎて風呂を沸かすのをわすれていたのだ。
精神的なダメージが俺の頭と体を蝕む。
寒むっ。
シャワーだ。シャワーしかない。人類はなんていいものを発明したのだろうか。最初にシャワーを作った人に、ノーベル賞をあげてもいいのではないだろうか。それくらい、シャワーの存在が俺を救った。ツマミを捻り、お湯をちょうどいい温度に調節する。髪を満遍なく濡らし、いい香りのするシャンプーを2プッシュ手に取る。あとは勢いのままに、手で頭をこねくりまわす。
シャシャシャシャシャ
シャンプーのいい香りが風呂の中全体に充満する。
ああ、やっぱり夜に入って良かった。朝だとこんな気持ちでシャンプーなんてできなかっただろう。風呂には浸かれないのが残念だが、シャンプーをしているだけで、泡と一緒に疲れが洗い流される気がする。なんで俺はこんな素晴らしい行為をすることを、ためらっていたのだろうか。ああ、心霊映像をみたからだった。ふん、あんな子供だまし、誰が怖いと思うのだ。シャンプーをしながらそんなことを考えていると、ふとなにかいつもと違う感覚に気づく。
シャシャシャシャシャ
あれ?今、頭を洗っているのは俺の2本の手、10本の指だけのはずだ。しかし、3回に1回ぐらいの割合で痒いところに手が届く指がある。非常に気持ちいい。プロ並だ。
しかし、洗い流せない。
シャワーで一気に流してしまえば、それでおしまいだ。
なのに今俺の頭を洗っている何者かの指が、まだシャンプーを続けているため、やめられない。
いや、俺の指は止められるのだが、止めた瞬間にこの第3の手がまだシャンプーを続けていたらと思うと、止められない。
ついに、裏ボスのおでましのようだーーーー