7月:憧れは……
更新がだいぶ遅れてしまいました。申し訳ありません。
こんにちは。伊藤早矢です。
高校一年生の私が卓球部に入ってから二ヶ月ほどの時が経ちました。暑い暑い七月です。暑いです。先輩たちが練習する卓球場も熱がこもって大変そうです。けれど、私たち一年生が居る炎天下の体育館周辺はもっと暑いと思います。日がジリジリと照りつけてきます。汗で日焼け止めも流れ落ちてしまうのではないでしょうか。それでも、私たちは外に居ます。私は一応中学の時からの卓球経験者なのですが、一年生は皆例外なく外で筋トレとのことなので、その意向に従います。
とは言っても、今外に出ているのは私たち一年生だけでなく、監督してくださる先輩もまた、ここにおられるのです。
「準備運動はもうしたな? よし、じゃあ腹筋背筋三十回ずつを三セット。それが終わったら、校舎の外周を三周。あ、あと未経験者は外周の後に素振りを百回。水分補給は各自のタイミングで必ずすること。良いな?」
「はい!」
私たちは姿勢を正して返事をしました。ちなみに私たちに呼びかけた先輩は、ユキ先輩です。もちろん、本名ではないのですが、私たちは親しみを込めて彼女のことをユキ先輩と呼んでいます。ユキ先輩に初めてお会いした時は、私、とてもドキドキしてしまいました。何せ、びっくりするほどの美人さんなのですから。小学校の頃から卓球をされていたそうで、部内でも一番上手い方です。聞いた話によると、学業でも優秀な成績を修めておられるようです。本当にすごい先輩です。そんなすごいユキ先輩ではありますけれど、先輩は気取ったところもなく、最後の大会に向けて練習に励んでおられる三年の先輩方に配慮して、私たちの筋トレの監督を引き受けてくださるほどに優しい方です。素敵です。外周の時に、私の思ったままをユキ先輩にお伝えすると、
「ん? 別に、そんな、大層なもんじゃ、ないよ。三年の先輩たちには、世話ンなったし、三年生が、残念生になられても、笑えないしね」
「ふふ、面白いです。……あ、いえ、違いますよ。ユキ先輩の冗談が、という意味です」
私は、ポニーテールの房を揺らしながら走る先輩を横目で見ながら、ふと思うことがありました。
「ところで、どうしてユキ先輩も走っておられるのですか? 監督なさるのであれば、素振りの方だけで良いのではないでしょうか?」
「あー、確かに。でも、言うだけ言っといて、言った自分がやらないってのは、なんか、ムカつくだろう? ちょっと、気分転換もしたかった、ってのも、あるけどさ」
ユキ先輩らしい答えだと思います。
ユキ先輩は私に、お前、よく走りながら息切れせずに喋れるな、と呟きながら、
「逆に悪いな、はやや」
謝られてしまいました。先輩が私に危害を加えた記憶などありません。何故でしょう?
ちなみに、「はやや」とは私のニックネームです。同じ一年のみんながそう呼んでいるのが、先輩にまで伝わってしまいました。
「何が悪いのですか?」
「お前は経験者なのに、筋トレばっかで、練習をさせてやれなくてさ。時期が時期だし、先輩たちに卓球台を譲るとなると、どうしてもな」
「そんなことはありません。私は大丈夫ですからっ」
考えるよりも先に言葉が出てしまったような気がします。
「体力面を鍛えておかなければ、実戦の時にも支障が出てしまいます。なので、筋トレは大事です。私は好きです」
「そっか、なら良かった」
ユキ先輩はほっとしたように微笑みました――この方はなんと柔らかな笑みを浮かべるのでしょう。幼馴染であるというリン先輩はずっと隣で見てきたのでしょうか。……そう思ったところで、また気になることが浮かんでしまいました。訊いてみます。
「ユキ先輩、ところで今日はリン先輩はご一緒ではないのですか?」
私が訊いてみると、ユキ先輩は眉を八の字にして苦笑を浮かべながら、
「ああ、リンはな。私と一緒に一年を見るって言ってたけど、最近アイツはフォームの調子が悪いからな、自分の練習をしてろって卓球場に置いてきた」
「なるほど、そうだったのですか」
私がここでリン先輩の不在に疑問を覚えたのは、リン先輩はいつもユキ先輩と一緒に居ることが多いからです。
リン先輩というのはもちろんニックネームですが、ユキ先輩同様普段呼ぶままに記させていただきます。さて、ユキ先輩が綺麗な人だとしたら、リン先輩は可愛らしい方だと思います。リン先輩はとても明るい方で、嘘ひとつ吐きそうもない、まっすぐで正直な人です。ユキ先輩とリン先輩は小学校からのお付き合いがあるそうで、卓球もその頃から続けてこられたので、リン先輩に並ぶ実力者でもあります。しかし、リン先輩が不調であるとは心配です。
「リン先輩は大丈夫なのでしょうか?」
言った後に気づいたのですが、後輩から訊くには、失礼なことであったかもしれません。しかし、ユキ先輩に不愉快そうな様子はなく、
「まぁ、大丈夫だろ。このくらいの不調なら、今日しっかり調整すりゃあ直るよ。長い付き合いの私が言うんだ、間違いは…………多分ない」
少し戯けたような口調で言いました。多分、私を安心させるため、ということもあるのでしょう。けれど、大丈夫だろうとも思えます。
「それなら良かったです。……私たちの筋トレに付き合っていただいている途中で訊くのも何ですが、ユキ先輩は自分の練習をしなくても大丈夫なのですか?」
「私の? ははっ、私はへーき。ひたすら球を打ちっ放しってのもしんどいから、良い気分転換になってるよ。……可愛い後輩と交流も出来るしね。ありがとな」
ユキ先輩は隣を走る私の頭をぽんと撫でてくれました。……うぅ、言葉で表しがたい、嬉しさに似た感情が湧き上がってしまいます。
やっぱり私は、ユキ先輩が好きです。とても尊敬しています。私もあと一年経てば高校での後輩ができます。その時に、私もユキ先輩のような先輩になってみたいです。リン先輩がユキ先輩を好きなのも、良く分かります。ユキ先輩とリン先輩は仲の良さの余り、同級生たちから「ユリカップル」とからかわれているらしいのですが、…………それもなんとなく納得できます。
けれど、実際はどうなのでしょう。私がユキ先輩に向ける感情は、多分「憧れ」と言い表せると思います。恋愛感情を同性の方に向ける方では、私はありませんので。
でも、リン先輩は……?
そして、ユキ先輩は……?
友情を超えた何かがあるのでしょうか?
なんて、考えすぎですよね。
私がぼうっとしている内に、ユキ先輩は先に走って行ってしまいました。先輩はもう学校に戻っていることでしょう。
考えながらでも、脚は動かせます。私ももうすぐ外周を終わります。
外周が終わったら、ユキ先輩は一年の素振りの指導をなさることでしょう。
私は、自分で持ってきた水筒に入れたスポーツドリンクを飲もうと思います。
もう一つ。
私はユキ先輩から、このようなお話をされたことがありました。
「あんまり構えずに聞いてほしいんだけどさ、早矢は無知についてどう思う?」
「ムチ?」
「『無知の知』の無知。知らないこと、だよ。どう思うって訊くのは、ちょっと抽象的かな?」
「そう……ですね」
「だよな。じゃあ、改めて訊くよ。無知は、罪か罰か、どちらだと思う?」
「罪か罰か…………ですか。うーん…………」
「あんまり考えすぎるな。パッと思いついたことを言えば良い」
「……少なくとも、罰ではないと思います」
「へえ、その心は?」
「無知は学ぶことで解消されていくものだと思います。学べば知ることのできるものを知らないまま、無知でいることは、怠慢という罪なのではないでしょうか」
「なるほどね。ただ、学んでも知ることのできないものってあると思わないか? 学ぶテキストとなりえるものがないもの、あるいは徹底的に秘されているもの、とかね」
「はあ、……確かにそれは、学びようがないですね」
「ただ、知る努力を怠るのは、早矢の言う通り、罪だよね。それならさ、」
と、続けた先輩の声は、今まで聞いたことのない、ぞっとするほど冷たい声でした――別人ではないかと疑ってしまうくらいに。
「無知を装うことはどう思う? 誰かを思って、知らないふりをするのはどう思う?」
「知らないふりをする、嘘をつくということですか? 嘘をつくのは良くないです。ただ、」
どもった私に、先輩が続くようにして、「優しい嘘、っていうのもあるよな。ついて良い嘘なんてのはないだろうが、許される嘘はあるよな、なあ、早矢?」
いつも飄々とした先輩が、何だか余裕がないかのように、私に迫ってきます。いや、私の考えすぎかもしれませんが。
「場合によっては、あり、ではないのでしょうか」
私がそう答えると、先輩の先ほどまでの迫力にも似たようなものは消え失せ、いつもの調子で、「そかそか。いやーっ、急にツマランことを訊いて悪かった。忘れてくれていいよ」と言って、その場は収まりました。
ほんの短い会話ではありましたが、私には強く印象に残った時間でした。
…………この人は嘘をついている。
そろそろ、コメディというレッテルを剥がした方が良い気がしてきました。