6月:雨の日は……
まどろみの中で、ふと、ユウキの存在を近くに感じた。わたしは今どこに居るのだろう。見える世界は広く、後頭部に柔らかい感触がある。誰かがわたしを覗き込む。長い黒髪が風に揺れて、はらはらと黒いカーテンが垂れて顔が表れると、ユウキが今まで見たこともないほど穏やかな笑みを浮かべていた。「リン」と、艶めいていて、空気をそっと撫でるような声がわたしを呼んだ。
――えっ、わたし、ユウキに膝枕されてる⁉ う、嬉しいっ、けど、心の準備が……。
アワアワと落ち着かないわたしを見て、ユウキはうっとりとしたように目を優しく細める。わたしの髪にぽんと触れるユウキの手の感触で、体温が上がっていくのを感じる。心臓の鼓動が早くなる。幸せが身体中を流れていって、何も考えられなくなってくる。
わたしはユウキをジッと見つめ返す。
長い睫毛に縁取られた、いつもはあまり開かれていない大きな瞳。程よく白い肌、形の良い鼻に、微かに膨らむ薄い唇…………。この唇に口付けることが出来たとしたら、それはどんなにか――――「リン」――「リン、起きろー」――
「……………………」
目が醒めた。というより、夢であることを思い出した。けれど、「何だ、夢だったのか」とか「今何してたっけ?」とか思う前に、わたしは眼前のユウキに視線が吸い寄せられる――ち、近い! あと少しでお顔とお顔がごっつんこだっ! ……い、良いな、それ……。
わたしがドキドキしていると、ユウキはわたしが起きたのを見て取って、向かいの席に顔を引っ込ませた。何だか少し、残念だった。
「リン、こんなとこで寝るな。風邪ひくぞ」
「ごめんなさい、何だか眠くなっちゃって」
「今日は朝練がなかったから、いつもより遅くまで寝てられたろうに。夜更かしでもしたの?」
「え、全然っ! テレビで滋賀と京都の対立とか見てないし、滋賀の人たちが京都に向かって『水を止めるぞ』とか言ってるところなんて、全然知らないよ」
「…………」
……あぅ、嘘がバレた。ユウキが死んだ魚のような目になってる。これは自分でも直した方が良いと思っている癖なのだけれど、わたしはたまーにではあるが、嘘を言ってしまう。そして、その嘘は、特にユウキにはすぐにバレる。
「夜更かししていて、家であまり勉強が出来なかった。だから、その分、私と一緒に図書室で集中して勉強をしようとしたものの、…………ね?」
ユウキが眉を上げて、唇を皮肉の形に歪めるので、
「ごめんなさいでした。全面的に非を認め、お詫び申し上げます」
わたしがしっかりと謝ると、しかし、表情に反する力の抜けた口調からも分かるように、「ま、いーよ、そんくらい」と、軽く許してくれた。
「というか、勉強が捗らなくて困るのは、あんたでしょ? テスト前なんだから、ちゃんとやんなきゃまずいだろ」
「うん、そうだね」
その通り。寝ぼけた頭が段々はっきりしてきた。
今は六月下旬の放課後。わたしはユウキと一緒に、学校の図書室で一週間後に控える期末試験の勉強をしている。本当は一人で勉強した方が捗るのかもしれないけれど、昨夜は集中力が切れてついついテレビを見てしまって全然出来なかったし、元々成績がいまひとつのわたしにとっては、二人でやった方が良い。わたしがサボらないように見ていてくれる人が居るだけでなく、ユウキは勉強も結構できるから分からないところを教えてくれて、何よりも部活がなくてもユウキと一緒に居られる。事ほど左様に、ユウキと一緒に勉強をしない理由があるだろうか、いや、ない。
「つっても、私、そんなに勉強できる訳じゃあないんだけど。部活のせいで家で勉強する時間がないから、授業はしっかり聞いて、分かんないとこは先生に質問して、課題はちゃんとやるようにしてるだけだ」
「あのね、ユウキ。それができる人が、勉強できる人なんだよ」
「はぁん? そんなもんかねぇ?」
良くも悪くも、ユウキは自己評価が低い――というより、真面目に自分を評価しようとしていない。適当だ。興味のあるものには優しいけれど、そうでないものに対してはびっくりするほど冷たく、適当なのだ。
もうちょっと自分に興味を持って欲しい。
でないと、ユウキを好きなわたしが何だか寂しい。
「しっかし、雨と言い試験と言い、六月ってテンション下がるよ。やれやれだよ、やれやれだよ、やれやれだよ」
どうやら、ユウキも集中力が切れてしまったらしい――話を振って来た。それに、梅雨の湿っぽさと間近に控える期末試験で、今日のユウキの機嫌がすこぶる悪い。その主な理由は多分、試験前ということもあって部活動がしばらくなくなるからだと思う。
「ユウキは勉強できるから良いじゃん。そんなにテンション下がることないと思うよ」
「んなことない。リンもさ、部活もなしに勉強ばかりで滅入ってこない?」
「別に。滅入ってこないよ」
部活はないけれど、ユウキと一緒に居られることに変わりはないから。平気平気。
「部活やってる時は、『あー疲れた、もうやんなっちまうよ』ってなるけど、いざないとなると、なんか体がウズウズするとでも言えようか……」
「でもテスト明けにすぐに部活あるから、それまでの我慢よ。我慢の子だよ、ユウキ」
「む、リンから諭されるとは珍しい」
「珍しい?」
それは失礼じゃないかな? 下に見ないでちょうだい。わたしはいつだって隣が良いんだから。
「例えばさ、リンと私が漫才コンビやることになったりしたら、多分私がツッコミだよな」
「? 変な『例えば』だね。わたしボケなの?」
「じゃない? 私、『取柄はないけど、常識はある』がモットーだから」
「噓つきは、ユウキの方じゃないの?」
「えー、なんでさ? 私には常識すらないと?」
「違う違う」
ユウキは女版鈍感主人公なのかな? ライトノベルの陰に隠れがちだけど、少女漫画では結構王道なパターンだ。
「ま、いっか。勉強を再開しよう」
こういうスイッチの切り替えも早く、あっさりしているユウキなのだった。
それからは、私とユウキは黙々と勉強に集中した。時々、ユウキに分からないところを訊いて教えてもらったりもしたので、思っていた通りに勉強も捗った。
一石二鳥かな♪
そろそろ図書室の閉まる時間になったところで、ユウキは腕を大きく伸ばしながら、
「んー、そろそろ帰るか。キリの良いところまでできたし」
「うん、そだね」
ちょっぴり名残惜しい気もするけれど、わたしたちは荷物をまとめて図書室から出た。この学校の図書室は、校舎とは屋根付きの通路で繋がった別棟にある。けれど、壁はないので、少しでも手を外に伸ばせばびしょ濡れになってしまう。
まるで夢から醒めたかのように、あるいは、今まで忘れていたのを思い出したかのように、雨音が私の耳にひどく衝いた。
昇降口に着いて、上靴からローファーに履き替える。傘立てからそれぞれ傘を取り出して、わたしたちは校舎から去る。下校だ。
歩いていると、傘にパラパラと雨が当たる音が響く。一人で歩いているときは全く気にならなかったけれど、今は何となくこの雨音が不愉快に感じる。邪魔に思う。
「ユウキは、帰ったら何をするの?」
と、わたしが訊いてみると、ユウキは、うーん、と唸りながら、
「まあ、夕飯食べた後にまた勉強かな。他にやることもないし」
と、答えた。うわぁ、こんなに真面目だったんだ、私の幼馴染。「リンの方は?」と、ユウキが訊き返してくるので、
「わたしは…………ベッドにダイブ」
正直に、わたしは答える。嘘ついてない。なのに、ユウキは得意の肩をすくめるポーズをとった。やれやれ、とでも言いたいの?
「図書室で勉強しただけで、満点取れんの? 継続は力なり。帰ってからも、やんなさい」
「えー」
「えー、じゃねーよ。あんた、高校に入って勉強が難しくなったって言ってただろ? ここで踏ん張らないと、…………留年するよ」
「ひぅっ! りゅ、留年⁉」
わたし、そこまで勉強できないわけじゃないんだけど。けれど、ユウキが先輩で私が後輩っていうのも、ちょっと良いかもしれないと思う気も、いや、でも、それだと……、
「私は、……嫌だな。リンと同じクラスになれないし」
「えっ⁉ う、うん。わたし、頑張る」
――ユウキも私と同じことを考えていてくれたっ。
「まー、あれだ。リンとは小学校の時からずーっと同じクラスだったから、今更他のクラスになるのも違和感が、ね」
傘に隠れて顔が見えないけれど、声が少し上擦っている。えっ、珍しい。ユウキ、照れてる?
覗きこんでみた。
「ん、何、リン?」
ちぇっ、間に合わなかった。瞬時にデフォルト状態に戻ってた。残念。
「うん、えーとね、わたしも頑張るから、ユウキも頑張って」
「何だよ、ほら、まっすぐ歩け。……私はあんたと違って、余裕で進級できるからな」
「あれれ、さっきは勉強できる訳じゃないって言ってなかった?」
「はっはー、私、あんたよりは勉強できるぜー」
「むうっ、さっきと言ってることが違うよ」
「私に教えを乞うてきたのはどこの誰だっけなー?」
「この度は、とてもとてもお世話になりました。ユウキ先生の教えを励みに、より一層、研鑚を積んでいきたい所存であります」
「ん、よろしい。頑張りたまえ♪」
ユウキと話していると時間の流れが早い、もうわたしの家の前に着いてしまった。
「じゃあ、リン。また明日」
「……うん、また明日ね」
傘を差したユウキが変わらない歩調で去って行く。
ユウキと歩く帰り道はとても楽しいけれど、別れる時はいつも寂しい。それでも、また明日会えると思ってその寂しさを振り払う――これもまた、いつものこと。
傘を閉じて、雨粒を振り払って、わたしは家の中に入る。「ただいま」と、呟く。
そういえば――、と傘立てにしまう前に、自分の傘を見つめた。わたし、二重の意味で言えなかったな。
「わたしと相合傘しない?」って。
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