3月:そして、春が来る。
自由に伸び伸びと生き、貴い意志を持った子になって欲しい。
ほとんど思い出のない死んだ祖父が私の名前をつけたらしいのだが、名前負けも良いところだ。未だ十代の小娘ながらこの世で不自由を感じなかった時はない。貴いなんてもっての外、賤しくも嘘ばかりついて生きてきた私である。
しかし、私よりも周りの人間が私の名前を気に入っていて、家族やリンなんかはわざわざ漢字の読みを強調して「ユウキ」と呼ぶ。今さら過ぎて、最早訂正する気はおこらないけれど、まあ良い。
好きに望め。好きに願え。
応えられるだけの私は居ないーーが、偽ればそういう自分でも在れる。要は気の持ちようなのだ。
気の向くまま、というかわがままに今後も生きていきたいと思う。
ま、嘘ばかりの私の決意なんてアテにしない方が良いと、申し添えておくのを忘れる私ではないが。
「いってきます」
玄関を出てすぐに浴びた陽光と、まだほんの少し冷たい空気から、春の訪れを感じられた。平日の朝、防寒具なしの冬服で通学路を歩き始める。
道行く人々の様子はどこか慌ただしく見える。年度末と年度始めはみんな忙しいから致し方ない。思うに、この慌ただしさも季語に数えられそうな気がするのだけれど、どうだろうね?
春夏秋冬と四つの季節を今年も過ごして来たが、振り返ってみると夏と冬の二つと、それぞれの準備期間くらいにしか感じられなかった。5月の時点で夏のように暑いと愚痴っていたし、冬は冬で長引いて3月になった今もまだ冬物の服をしまえずに居る。
かようにどっちつかずな気候なのに、どこか春を感じさせる、今日はそういう日だった。
角を曲がって、川沿いの道を歩く。フェンスに沿って並び立つ桜の木は今にも開花を迎えようとしている。が、蕾にはそんなに興味は唆られない。私の関心は底が見えるほど透明度の高い川の水にあったーー清濁併せ持つ筈なのに、それでも尚美しいと思える水に。
が、いつまでもボーッと眺めていると遅刻してしまうので、私は再び脚を運ぶ。
「………………ふぅ」
気付けば私の隣を一人の少女が歩いていた。私と全く同じ制服に身を包み、長い髪をポニーテールに括っている。溌剌そうに見える顔付きと歩き方から、いかにも感じの良さそうな女子に見える。規則正しく刻まれる足音からも、そのポジティブなイメージを支えているように聞こえる。
いや。
ここは「見える」ではなく「視える」と、「聞こえる」ではなく「聴こえる」と言うべきなのだろう。
きっと私にしか視えていないし、聴こえもしない。
「やあ、大嘘つきさん」
“私”だ。彼女は“去年の私”だ。
挑発的な物言いが功を奏したのだろう、“私”は仮面を剥がしながら私を見た。
『アンタは何?』
それは私のセリフだろうと思ったが、私が“私”なら同じ疑問を持ったに違いない。故に、私は無礼に振る舞う。
「ねえ、アンタは毎日楽しい?」
『問い方が抽象的』
「楽しいか楽しくないかで答えてくれれば良いよ」
『楽しいよ。部活に勉強に人間関係まで、何もかもが充実しているから』
なるほどね、忙しくて退屈で煩わしくて楽しくない、と。
「独りで居る時が一番楽なんだよな。誰にも気を遣わずに、嘘をつかずに済むから」
“私”は答えない。
「人気の少ない公園で、人工物でも構わないから自然を感じさせるもの、例えば木々に囲まれた場所なんか落ち着くよな」
『わかる』
こちらは即答だった。
「でも、孤独が好きな訳でもない」
『人は一人では生きていけない』
「そういう一般論はもう良いんだ。本当の自分を知られたくないのに、本当の自分を受け入れて欲しいという、ただの個人的なわがままだったんだよ」
“私”は怪訝そうな目で私を見る。何を言ってるんだと、目で訴えかけている。
「保育園の頃のこと覚えてるか? 結構忘れてることも多いけど、これは覚えないか。『どうしてみんなは漢字を書けないんだろう?』と」
『覚えてる。周りには沢山の言葉が転がっていて、わざわざ教えてもらわなくても、言葉の使い方を記憶していく。漢字だって、3、4年も生きていれば日常的に使う言葉なら書けるだろうって』
「そうそう。なのに、みんなひらがなを書くことにすら四苦八苦しているんだ。おかしいな、って思ったよな」
『周りの子たちは気にする知恵もなかったから良かったけど、大人からは奇異な目で見られるようになった』
「まずいことになったと思って、普通を装うようになって、“私”が出来上がった」
『集団をはみ出さなければ、ぬるま湯の中に居られる。私は上手くやったよ』
「そうだね、流石は大嘘つきだ」
私がそう言うと一瞬の沈黙があったが、最早悪びれもせずに“私”は言った。
『嘘をつかない人間なんて居ないけど、私ほど嘘をつき続けた者を他に知らない。嘘をつくどころか、嘘に疲れたくらいだよ』
「なんだ、わかってるんじゃないか。あまりに本音を出せないと、いくら嘘をつくことに慣れていても疲れるんだ。その隙を突かれて、足元掬われることもあり得ない話じゃない」
『……そんなことがあるのか?』
「ああ。私は知っている。私は“私”だったんだから」
言いつつ、私は自身の後髪に手を伸ばす。何で括ることもなく、何で結うこともなく、そのまま背中に流している。
『なあ、私もアンタに訊いてみたい。アンタは毎日楽しい?』
「大嘘つき相手に真実を答えてもらえると思ってるの」
『それは私が判断するから、答えるだけ答えて』
「楽しいよ。ずっと欲しかったものが手に入ったんだ。これが浮かれずにいられるか」
「ずっと、欲しかったもの……」
目を伏せる“私”に、私は嘘も余計なことも言わない。
自分相手に気を遣う訳がない、言うまでもないことだから。
「“大嘘つき”ですら、本当の願いを隠すためのブラフでしかない」
私はずっとリンを守りたかったんだ。
理由も理屈もなく、誰かの為に何かをしたいと思えたのは、恐らくこれが最初で最後。リンの為になるんだったら、私の存在すら要らないと思っていた。
『それで、上手く行ったの?』
「全然。どころか、本当の私を暴かれて、それでも好きだと言われてしまった」
『リンも見る目ないね』
「同感」
私は結局改心などしていないし、今後もそのつもりはない。人を欺き、人を騙し、都合の良いように生きていく所存だーー誰にとって都合の良いかが少し違うかもしれないが、他人ではなく自分に対象が変わったのが余計にタチが悪くなった気がする。
「大変そうだけど、ま、頑張んなよ」
『お互い様だろ、そりゃ』
互いに適当なことを言ってるなと思いながら、ふと、私たちは前方に自分に向かって大きく手を振る人影を見つけた。
意味のない対話の時間ももう終わり。
「じゃあね、“私”」
『またね、私』
隣を歩いていたものの気配が消失したのを感じる。前に向かって歩くにつれて、その小柄な輪郭が明確になっていく。
「ユウキー、おはよー!」
待ち合わせの場所に先に来ていた、その名の通り鈴のような可愛らしい声を聞きながら。
「おはよう、リン」
何も特別なことのない日常の中、その声に応えられる瞬間を、私は心から幸せだと思った。
長い中断期間もありましたが、これで『ユウキとリン』は完結です。
ご愛読ありがとうございました。




