1月:「ねえ、こっちへおいでよ」
お待たせしてすみません。
1月を目前に1月1日のお話をお送りします。
石のようにカチカチに一瞬でも固まったユウキだったけれど、すぐに平静を取り戻したのか、首だけでこちらに振り返って曖昧に微笑む。
「気持ちは嬉しいけど、友達相手に世界一は大袈裟だろう。いくら昔馴染みとはいえ、さ」
「ち、違うの! そうじゃなくて……」
「まあ、世界一もあながち間違いじゃないか。私が未だに保育園から交流があるのは世界で唯一、リンだけだしな。うんうん」
ユウキが一人でそう言って納得しようとしているのを遮るように、わたしは続ける。
「わたしが言ってるのはライクじゃなくてラブの方なの! ユウキを愛してるの!」
わたしが叫ぶと、ユウキの笑みは段々と剥がれ落ちていく。無表情を経てから、ユウキはこれまで見たこともない鋭い眼光を向けてくる。
「ならば、一つ確認するよ。……早矢に唆されたのか?」
……やっぱりユウキは知っていた。わたしと早矢ちゃんが、どうすればユウキの心を開くことができるのかを相談し合っていることを。
優しくて頼りになる女の子。そう在るために、もの凄い意思の力を全身から発して纏い、人を寄せ付けながらも芯に近づこうとした者には蒼い火花を散らして遠ざける。
深く見えるようになってから、時々目の前の彼女が誰なのかわからなくなる。
でも、わたしは。わたしだけは。
「早矢ちゃんとは色々お話ししたよ。でも、わたしが今こうしているのは全部わたしの意思だよ」
わたしがそう言うと、ユウキはふいっと視線を斜め下に逸らした。わたしを見ることをやめただけで、どこも見ていないように思える。
「人は自分に優しくしてくれた人を好きになる。けれど、そうして近づいたところで隠された醜さに気づいて、勝手に失望して勝手に離れるんだ。人は人の為に生きられない、自分勝手に生きる。それは何も間違いじゃない、むしろ生物としてはそうでなくっちゃダメだ。故に、私は人を信じない。自分すら信じられない。こんな私が誰かを好きになれると思うか?」
低く、感情が殺されたような声色でユウキは続ける。
「社会はマイノリティに冷酷だ。同性同士の恋愛なんて、マイノリティの極みだろう。社会制度の転換期とは言え、途上にも程がある。奇異な目で見られることに耐えられるのか? 理解の足りない愚か者が跋扈しているんだぜ、そいつらの方がマジョリティなんだ。民主主義は多数に優しく少数に非情だよ。たまに優しく見えたとしても、それは刹那の錯覚に過ぎない。…………聞かなかったことにするよ」
「いやだ」
わたしが即答すると、流石に驚いたのか、ユウキの肩がビクッと震えた。
「リンはそこまで愚かじゃなかったと思うけど?」
「愚かでも何でも良いよ。ユウキだってわたしのこと好きでしょ?」
「は?」
「ユウキ、すごくわたしのことを考えてくれてるんでしょ。今言ったことだって全部そうじゃない?」
「……違う。ポジティブにも程があるだろ」
「お父さんとお母さんが中々家に居なくて、寂しかったわたしに一番最初に優しくしてくれたのはユウキだったね。それが他の誰かだったら、その誰かのことを特別に思ったのかも知れない。だから、それがユウキで本当に嬉しいの」
「……論点がズレてる」
「何もズレてない。ユウキが好きだってずっと言ってる」
「なら余計に私の話を聞いてたのか訊きたいわ」
「えー……愛さえあれば何とかならない?」
「それはまず私に愛とやらがあるかどうかの大問題があると思わないかね」
「そこは問題ないでしょ」
「何でよ」
「だって、わたしの話を無視せずずっと聞いてくれてるじゃない」
「………………」
睨むようにムッツリとしていたユウキはついに何も言わなくなった。けれど、不意に口元だけを笑わせて、
「無視ってアンタに一番やっちゃいけないことでしょ。ほら、私は気配り屋さんの優しい子だから」
「知ってる」
「……つっこめよ」
「ユウキはずっと辛かったんでしょう。嘘をつき続けることが」
「……わからない。辛ければ辛くないと自分を騙し続けてきたから。私はそれを悪いこととは思わない。なぁ、リン。真実なんて本当に必要だと思うのか?」
「真実は始めから真実なんじゃなくって、揺るぎないものが後から真実と呼ばれるんだと思う。わたしのこの想いのように」
ユウキは遠い目をしている。もしかしたら、今だけでなく過去まで遡って広い時系列のことを考えているのかもしれない。
✳︎
愛も友情も世界には蔓延っているのに、どうして私のものにはならないのだろうか。
いや、これは私の問題なのだろう。善良なる一般市民である私の家族は愛を向けてくれているのだろうし、普段周りにいる子たちは私に友情を感じてくれているのかもしれない。……「だろう」とか「かもしれない」とか、断定できないのは何も信じられない私に落ち度がある。
リンのこともそうなのか。……違う、もっと複雑だ。
リンに初めて会った時、私は生まれて初めて「可哀想」という感情を抱いたのだった。
保育園の庭の隅で一人で遊んでいるのを見て、全てを察した。この子は周囲への愛想の振りまき方を知らないのだと。
子どもは愛されて初めて愛し方を知る……らしいので、この子には愛された経験が十分に足りないのだと、私は理解した。
後から知ったが、リンの両親はいわゆる芸能関係の仕事に就いていて、それも売れっ子の域に入るくらいの忙しさだったのだ。リンが親から愛されていないなんてとんでもない、両親が家に居る時の娘への溺愛っぷりは何度も目にしている。ただ、この頃の彼らはあまりに忙しくて、幼い娘にとっては質はあれど量が足りない……一緒に居られる時間が少なすぎたのだ。
故にリンは寂しかった。
細かい事情までは知らなかったが、深い孤独を感じ取った私は……。
木の下の濃い陰に居るリンに、私は思わず声をかけていた。
「ねえ、こっちへおいでよ」
打算なしに誰かに声をかけたのはこれが初めてだったように思う。言った直後に自分でも軽く混乱したほどだ。
リンが私の差し伸べた手を取ったことに端を発して今の関係に至っている。
……あの時の私はリンにどう映ったのだろう。希望の光か何かに見えたのだろうか。自分で言っていて、その単語の空虚さに笑ってしまう。もうその頃には既に厭世観たっぷりの幼女だった私に希望なんてあまりに縁遠い。
私は嘘みたいに優しい言葉と行動を重ねて、リンは少しずつ明るくなっていった。初めてリンを見た時に感じた全てを言葉に言い表すのは難しい……が、その一つである“こんな薄暗い場所に居るのは惜しい”と思った私の目的を果たすことには成功したのだった。
だが、理性をあまり通していない行動だったからだろう、大きな誤算が生じた。
リンが本来備えていた大きな愛情が全て私に向けられてしまったことだ。依存と言っても良い。学生の間ならばそういう個性としてある程度は受け入れられるかもしれないが、社会に出ればきっとそんな在り方では保たない。
遠くない将来、リンは壊れてしまう。
そのように差し向けてしまった手前、責任を取らなければと思った。思っただけではない、即行動だ。少しずつ距離を取りつつ、代わりに『この子なら』と思えるほど良い子を厳選してリンの側に置いた。
早矢は私の想定していた以上に勘が鋭く、私の本性にまで辿り着かれてしまったが、まあ、それはどうでも良い。どうとでもなる。
とにかく早矢は上手くやってくれた。リンは良い方向へ変わりつつある。その隣に私は要らない……そう思っていたのに。
私はまた何かを間違えた。
この期に及んで私が好きだなんて、一体今度は何を間違えてしまったんだろう。
✳︎
「ユウキは何も間違ってないよ! ……自分のことについては間違ってるかもしれないけど」
わたしがそう言うと、ユウキは眉を寄せながら首を傾げた。多分、本当にわたしが言っていることの意味がわかっていないのだろう。
「ユウキは自分のことを嘘つきだって言ってる。それは本当にそうかもしれない。でも、あなたのつく嘘は私利私欲でも、他の人を貶めようとするものでもない。あなたはいつだって誰かのために嘘をついてきた」
「……は?」
「誰も傷つけたくないから、沢山の言葉を飲み込んでみんなに優しくしてきたんでしょう」
「おいおい……」
「ユウキが嘘をついて誰かが不幸になったことがあった? ないでしょう? 嘘をつくあなた以外のみんなが幸せだったもの」
「待てよ。それだと、私が周囲の幸福のために自己犠牲を働いてきたみたいじゃないか。違う。私はそんな惨めな奴になった覚えはない」
「だったら、ユウキも幸せになってよ! もう嘘の笑顔は見たくない」
「見なきゃ良いじゃないか」
「無理だよ! だって、ユウキが大好きなんだもん。ユウキが幸せになってくれなきゃ、わたしも幸せになれない」
ユウキの目が微かに大きく見開いた。そして、「ふーっ」と溜息を吐きながら苦笑を浮かべる。
「……それは困ったな。他の有象無象のことなんて本当はどうでも良いんだけど、あんたは、あんただけは幸せになってくれなくちゃ困る。私の望むものは己の平穏以外には、たった一つそれしかないんだから」
「ユウキ……」
「私は自分が嫌いだ。だから、誰かに好かれたいとも思えない。そんな私のことでも、あんたは好きだって言えるの?」
言えるのかと問われて、わたしは沈黙をもって答えとした。既に言葉を尽くした気もするし、言葉では伝えきれない気もする。
そんなわたしの様子を見て取ってか、ユウキはガックリと肩を落とした。ええっ、伝わらなかった? 好きだと言えないと誤解されちゃった?
慌てて弁解しようとしたところで、ユウキに頬を摘まれた。
……摘まれた? 何事?
「にゃにごと?」
「ううん。馬鹿だなーって思って」
よくわからないけれど、馬鹿にされているのはわかる。馬鹿でもわかる。
「さて、お馬鹿で可愛いリンちゃんに問題です。私はこれから何をするでしょう。そして、リンはどう行動するのが正解かな?」
ユウキは突然何を言い出すの。頬は依然として摘まれたまま。ユウキの浮かべている悪戯っぽい笑みがすごく新鮮に映る。大人っぽい綺麗な顔が少女らしくて可愛く見える。ユウキ可愛い。って、あれ、わたしは何を考えるべきだったんだっけ。
頭の中で色んな考えを巡らせていても、側から見ればただボーッとしているようにしか見えないんだろうな。違うよ。違うんだからね。
そうこうしていると、ユウキの笑みが深くなっていき、
「そう。“何もしない”のが正解」
頬を摘んでいた手が、そのまま優しく添えられて。見惚れていたユウキの顔が近づいてきたと思ったその時には。
ユウキの唇がわたしの唇に押し当てられていた。
「んな、ななななっ⁉︎」
「んふふ、散々煽られたからね。決めたよ。私はもうちょっと自分の欲望に正直になることにする」
嘘。キスされた? え、ちょっと待ってちょっと待って。
言葉にならない思考がさっきとは比べ物にならないほど駆け巡る。加速。混乱。熱暴走。行き着くところまで行き着いた瞬間、急速に力が抜けていく。総ての思考がするすると解けていって。
「ちょ、おい、大丈夫か、リン?」
動揺したユウキの声を遠くに聞きながら、わたしはそのまま意識を手放したのだった。




