魔王
「レーヴェさま、大変なところ恐縮ですが、私たちは一旦城に戻ります」
ベルルエルは、エリスを取り囲んだままピクリとも動かないワーランの宝石箱に形式的に挨拶を行うと、その返事も待たずに翼をはためかせ、魔王を抱きかかえながら城に向かう。
「ああ、そうだ、そうだったな」
ベルルエルの腕の中で魔王が独り言のように呟く。
「思い出されましたか?」
「ああ、全て思い出したよ」
「それはようございました。まもなく城に到着いたしますので、まずは勇者との約束を果たしましょう」
「そうしてくれ」
ベルルエルは城に到着すると、ベッドに魔王を横たえ、その足で地下室の魔法陣に向かう。
そこは悪魔に対する儀式をおこなう場所。召喚と送還もここで行われる。
ベルルエルは魔法陣の中心に立つと、その魔力を解放する。
「アルメリアン大陸にて活動する全ての悪魔どもに宣言する。ここには既に魔王は存在しない。ゆえに汝らはこれより自由である。各々が各々の判断に基づき、悪魔の人生を謳歌せよ!」
同時に魔法陣から光が沸き立ち、ベルルエルは輝きに包まれた。
「あ……」
ここは天使襲来から一段落したワーラン。自由の遊歩道で、仲間とカボチャの片づけを行っていたマルコシアが一瞬身震いした。
「マルコシア、どうしたの?」
「はい、マスターマシェリ、今、悪魔副官から大陸中の悪魔に対して、魔王はすでに存在しないゆえに、強制力の解除をするとの発信がありました」
「それってどういうこと?」
「魔王が現れる前の世界に戻ったということです。悪魔は悪魔として自由に生きろと……」
マルコシアはマシェリの問いに正直に答えるも、少し困ってしまった。
悪魔の私はこの街を追い出されるのではないかと。が、マシェリの反応はマルコシアが危惧するようなものではなかった。
「ふーん。あなたには関係のない話ね。ならこのままカボチャ掃除続行!」
マシェリに促されてマルコシアは笑顔でカボチャ掃除に戻る。
拾い上げるカボチャがにじんで見えるのは多分気のせいだろう。こんなにうれしいのに涙なんか出るはずがないのだから。
ベルルエルは儀式を終えると、再び魔王の寝所に戻った。
「ご気分はいかがですか? 魔王さま」
「ああ、最悪だ」
魔王は自分自身から、魔力のほとんどが失われているのを感じていた。一部を除いたほとんどの魔法については、術式は頭の中に残っている。だが、多分行使する精神力が足りないのだろうと直感でわかった。
「ところでご記憶の方はいかがですか?」
「この世界に来る前の自分自身について、全て思い出したよ。俺の本名もな」
「それはようございました。ところで天神から、貴方さまの処遇について選択を認められております」
「それは?」
「ひとつは元の世界に戻ること。もう一つはこの世界で生を全うすることです」
「向こうの世界とこちらの世界では、時間の流れはどうなんだ?」
「ほぼ同じです。貴方さまがこちらに来られて、向こうの世界でもこちらの世界でも、ほぼ300日が経過しております」
魔王は元の世界では、将来を嘱望された若手研究者だった。だが、その先進性と先鋭的な思想を疎んじた学会組織に嵌められ、閑職に回され、実験設備を取り上げられた。
いわゆる「打たれた出る杭」である。
魔王の答えは決まっていた。が、念のため思考実験は行う。元の世界に戻った場合について。己に後悔がないかどうかについて。元の世界に戻って、彼を閑職に追い込んだ連中を追い込み返してやるのも面白い。彼は一通りその計画を想像し、現実に即してシミュレートする。そしてそこから導き出された結果に満足した。目論見は確実に成功する。が、そんなことに人生を費やすのも馬鹿らしい。
もう向こうの世界に未練はない。
「ベルルエル、俺はこの世界に残るよ」
「さようでございますか。それでは本名でお呼びいたしますね」
「いや、いい。俺はこちらの人間として生きる。せっかくだからお前の別名、『ベルルデウス』として、この世界で生きるよ」
「かしこまりました」
「ところでお前、ベルルナルのときはひどいもんだったけど、まともに戻ったね」
「ええ、どうも女性化のときに頭のねじを何本かその辺に落としたようでして。ですが、楽しかったですよ。まさか魔王さまが私にあんなことしたり、こんなことさせたり、そんなところにそんなものを……」
「やめい! 男の姿で面と向かってそんなことを言うんじゃないよ」
「それは狭い了見ですね。そんなことで自由を標榜するワーランで生きていけるのですか? ちょっと試しに今から寝てみましょうよ。私、穴は1個減りましたけど、棒は1本増えていますから、貴方さまにとって新しい世界が広がると思いますよ」
「あのね、その美しい顔で真顔でそんなこと言うのやめてくれる? 俺は棒は自分のが一本あれば十分なの」
「それは残念ですね。せめて別れのあいさつ代わりに一勝負と思ったのですが」
「何で天使の恰好してそんな欲望にまみれたこと言うのよ」
「だって私、天界の欲望担当でしたから」
「さいですか……」
……。
「さて、漫才もこの辺にしておきましょう。先ほど貴方さまにお渡しした指輪は、『大魔道の指輪』と『精神の指輪』です。使用方法は適当に鑑定してください。よろしいですか、貴方さまは魔力のほとんどを失いましたが、その頭脳には様々な魔法が残っているはずです。ぜひとも有効にお使いくださいませ」
「ああ、ありがとう」
ベルルエルは彼の表情を覗き込み、にやりと笑いながら言葉を続ける。
「貴方さまはあの女のところに向かうのでしょう? あの女の心の傷は相当深いと思われます。が、貴方さまがそれを根こそぎ抉り取って、開けた穴ごと貴方さまで埋めておやりなさい」
「ふん、大きなお世話だ」
「それでは私もそろそろ天界に帰らなければなりません。お見送りいたしますから、お出かけくださいませ。このお城は自由にお使いくださって構いませんからね」
「ああ、何から何まですまんな」
魔王はお気に入りの農夫衣装を着こみ、頭に麦わら帽子を乗せた。ベルルエルから贈られた指輪の能力はすでに把握済み。この能力ならスカイライナーの術式程度は余裕で行使できる。
「それじゃ、今までありがとうな。ベルルエル」
「ええ、これが最後のご挨拶です。ベルルデウスさま、ごきげんよう」
ベルルデウスは、天使ベルルエルに対して最敬礼を行い、ベルルエルもそれに応える。
頭を上げた後、ベルルデウスは振り返り、スカイライナーの魔法で一直線にワーランに向かって飛んでいく。
ベルルエルは彼が点となって消えるまで見送った。
彼が視界から消えたのを確認した後、ベルルエルも踵を返す。
「さて、それでは『私たち』も天界に帰ることにしましょう」
そう呟くと、ベルルエルは自らの胸に両の手を添える。
ベルルエルは、魔王との別れを悲しみ大粒の涙をぼろぼろと流しながら嗚咽を漏らしている『薔薇色姫』の心を両の手でやさしく抱え、天界へと羽ばたいていった。
ベルルデウスはワーランに到着すると、後片付けにてんてこ舞いの市民たちを強引に掻き分け、マルゲリータの住むアパートメントに一直線に向かう。
「マルゲリータ! 話の続きだ!」
「しつこいねこの人は、外の盛り塩やニンニクが見えないのかい! イワシの頭もぶら下げておきゃよかったかね」
「うるせえ! 人の話を聞け! ちょっとあがるぞ」
ベルルデウスは玄関で通せんぼをするように立っていたマルゲリータを押しのけるように部屋にあがりこむと、さも当然のようにローテーブルの片方にどっかりと座りこんだ。
マルゲリータはため息をつきながら、小さなグラスボードからグラスを2つ取り出し、テーブルを挟んでベルルデウスの前に座る。
「果実酒だけど、飲むかい?」
「ああ、いただく」
マルゲリータは陶器の瓶からさわやかな香りのする液体を、彼の前に置いたグラスに注ぎ、次に自分の前のグラスに注ぐ。
「この部屋にあがりこんできた男はあんたが初めてだよ。これが百合の庭園だったら、あんたは今頃逆さ吊りだね」
「ふん。そんなものは返り討ちにしてくれるわ」
……。
どちらからともなく、2人は吹き出した。そして互いのグラスを軽くぶつけあう。
「あの娘はどうしたんだい?」
「ああ、あいつは天界に帰った」
「そうか、やっぱり天使さまだったんだね」
「そうだな」
……。
「なあ、マルゲリータ」
「なんだい、ベルさん」
「一緒に暮さないか?」
……。
……。
ベルルデウスの不意の言葉にマルゲリータは硬直してしまう。
「え?」
「だから、一緒に暮さないか?」
この男は何を言っている? 汚れた私に向かって何を言っている? え? え?
いつの間にかベルルデウスはマルゲリータの隣に座っていた。
「続きだ」
ベルルデウスは自らのグラスをテーブルに置き、マルゲリータのグラスも彼女から奪うと、テーブルに置いた。
彼は彼女の頬に手を当て、半ば強引に彼女の顔を彼の方に振り向かせる。
マルゲリータはまだ何が起きているのかわからない。
硬直したままの彼女の唇に、彼の唇がやさしく重なる。
再びマルゲリータは甘い世界に囚われた。
この男はやっぱり魔王なのだろうと、糸一本だけでつなぎ止められた理性で想いながらも、身体は彼に吸い込まれていく。
が、再び彼女を悪夢が襲った。
「殺すぞ」
彼の言葉に、彼女は再びパニックに陥る。なぜそんなことを言うの!
マルゲリータは必死の形相で叫び、彼のあちこちに噛みつき、背に爪を立て、身を悶え、彼から自由になろうとする。が、彼は思いのほか強靭だった。マルゲリータは逃げることも叶わず、ただただベルルデウスの身体に傷をつけ、彼の愛撫に溺れていく。
ついに彼はマルゲリータの中に侵入してきた。彼女は脳天を打たれたようなショックと、全身に電流が流れるような痙攣をその身にぶつけられる。
怖い怖い怖い怖い! 助けて助けて助けて助けて!
マルゲリータは心に残る傷によって恐怖を再燃させられ、快楽に溺れまいと必死で逃げようとする。が、ベルルデウスは容赦なく彼女を蹂躙した。徐々にマルゲリータの意識は遠のいていく。世界が真っ白になっていく。
マルゲリータは意識を取り戻した。眼を開けるのが怖い。こんな目に遭った後、目を開けた先には碌なものがなかったから。それは腐臭を放つ大量の汚物などであったり、あちこちに血糊が固まった人間の首などであったから。
眼を開けたら、あの頃のように、自らを罰するように、身をつき刺す井戸の濁った冷水で自らの身体を洗い流さなければならない。
目を開けたくない。
が、次に彼女は気づく。彼女の頭を抱きかかえてくれている柔らかな感触に。
彼女の腰を支えてくれている柔らかな感触に。
それは温かな感触。
マルゲリータはそっと目を開けた。
「よう、お目覚めか」
目の前には彼女の心を抉った男の笑顔。
マルゲリータは気付いた。この人は私の傷ごと心を抉ったのだと。抉った心に入り込んできたのだと。だが、それは決して不快なものではなかった。
マルゲリータは目に熱いものを浮かべながらも、彼に言い放つ。
「全くひどい男だね。責任は取ってもらうよ」
「当然だな」
ベルルデウスは彼女に唇を重ねる。
しばらくのキスの後、マルゲリータはベルルデウスの耳元で囁いた。
「次はやさしくしておくれ」
「ああ、任せな」
2人は仲良く溺れていく。
しばらくの後、魔王だった男は、ワーラン市民から親しみを持ってこう呼ばれるようになる。
盗賊ギルド芸能部門リーダー 『女王蜂』 のヒモ。
『麦わら帽子のベルさん』と。




